今日のヨハネの福音は、イエス様が神殿で起こされた、いわゆる「神殿浄化事件」について語っています。イエス様のその行動を「事件」と呼ぶのは、誰もが想像し得なかった行動だったからです。それは過越祭が近づいた頃、つまり、神殿に多くの群衆が集まる時期に起こりました。そもそも、イスラエルの民は自分たちの歴史の中の重要な出来事を、民全体が様々な祭りとして記念してきました。その中でも一番大事な祭りが三つあって、それは過越祭、五旬節、また、仮小屋祭です。そして、その三つの中で最も重要な祭りが過越祭です。なぜなら、過越祭は、エジプトで大きな力を持ってイスラエルの民を救われた神様が、それを記念するようにと命じられたからです。また、その祭りの中で神様との契約を更新し、自分たちが神様の民であることを改めて確認したのです。その大事な祭りを控えていた時に、イエス様は驚くべき行動を見せられたわけです。一体、なぜイエス様はその大事な祭りの前、そういう騒動を起こされたのでしょうか。

元々過越祭は、イスラエルの伝統的なカレンダーによる第一月の十四日から始まりますが、その捧げものはその月の十日に用意しておきます。本来は一家族ごとに自分たちの家畜の中で一匹の小羊、或いは、山羊を選んで、それを十四日まで生きたまま置いておき、十四日の日暮れの頃、それを屠ることとなっています。そして、その肉と酵母の入らないパンとを食べますが、それが過越祭の主な食べ物で、それを食べることが過越祭の儀式なのです。その家畜とはイスラエルの命の代わりに捧げるもので、イスラエルは家の中でその肉を食べながら、自分たちがその家畜の血によって救われたことを記念したのです。また、酵母とはエジプトでの生活を示すものですが、それが入らないパンとはエジプトとの断絶を表すものなのです。実は、イスラエルはエジプトで奴隷として虐げられながらも、ファラオからわずかのパンをもらって、その侮辱と恥を慰めるしかありませんでした。併せて、それは罪をも表すもので、その酵母の入らないパンを通して、エジプトでの侮辱と恥、そして、エジプトへの憧れやそういった誘惑、それによる罪などを投げ捨てる決意を表すものです。つまり、小さな家畜の血によって命が守られたイスラエルの民は、酵母の入らないパンを通して、清いものとなって神様の民としての自由を得たことを、過越祭をもって記念するのです。

しかし、長い歴史の間イスラエルは罪を積み重ねて、その罰として隣の国の植民地となり、多くの人が外国で過ごさねばならなくなりました。それでも、イスラエルの人々はあちこちの国からエルサレムに集まって祭りに参加し、自分たちの罪の赦しのための、また、祭りのための捧げものを求めたのです。それで、外国のお金をイスラエルのお金に換えるため、神殿の境内にまで両替人たちが集まっていたのです。ところが、イエス様はその様子をお怒りになり、縄で鞭を作って祭りの捧げものとなる家畜を追い出し、両替人のお金もまき散らされました。こんな状況に見舞われた人々は、過越祭の捧げものをどこから手に入れることができるのでしょうか。また、イエス様はその責任をどう負われるでしょうか。

結論から言えば、イエス様はその責任をきちんと負われました。イエス様は追い払った牛や羊の代わりに、ご自分の命を捧げられました。イエス様はその騒動から数日後、民の祭司長や指導者たちに捕らえられて、ローマの総督ピラトに渡され、十字架上で息を引き取られたのです。それは、神様の小羊としてなさったことで、神様は何の罪もなかったイエス様を、民全体の清めのための捧げものとされ、また、その血によって新しい契約を結ばれました。言い換えれば、イエス様はただ一度の死を通して、清めのための儀式と過越しの儀式を全うされたということです。しかも、イエス様がなさったその尊い犠牲は、当時のイスラエルの民のためではなく、あらゆる時代のすべての人たちのためのことだったのです。つまり、イエス様の血による新しい契約は永遠の契約でもあるということです。このように、神様は独り子を人間の罪の赦しのため、また、救いのために与えられましたが、それは慈しみと憐れみ、また、愛の御心による御業だったでしょう。イエス様は神様のその慈しみと憐れみと愛を、使徒たちは勿論、すべての人が学ぶことを望まれました。そういうわけで最後の晩餐の時、「互いに愛し合いなさい。」という掟を弟子たちに与えられたのです。つまり、その愛によってイエス様ご自身が御父と一致しておられるように、イエス様はすべての人が同じ愛によって、イエス様と御父との一致に与るようにと招いてくださったわけです。要するに、イエス様は神殿で行われていた商売や両替による祭りの捧げものの準備ではなく、神様の慈しみと愛による真の捧げものとして、ご自分の命を与えてくださり、すべての罪の赦しと新しくて永遠の契約をもたらしてくださったのです。

今日の第1朗読で、神様はモーセを通して、いわゆる「十戒」という掟をイスラエルの民に授けられました。その十戒に対してイエス様はかつて次のようにまとめられました。それは「神様を信じ、また、愛し、隣人を自分のように愛すること」なのです。神様は人間を束縛するためこの掟を授けられたのではなく、むしろ、罪と死の奴隷の状況から人を救うために与えてくださいました。それがパスカ、すなわち、過越祭に実現され、イスラエルの民はその祭りの家畜の血と酵母の入らないパンを持って、神様の救いの御業を記念したのです。更に、神様はイエス様の御血を通して慈しみと愛による救いの計画を全うし、旧約の過越祭を完成されました。そして、今も、世界のすべての教会は毎日のミサを通してイエス様による新しい過越しの神秘を記念しながら、イエス様の御体を清い食べ物として食べ、その御血を新しい契約のしるしとして頂くのです。ですから、イエス様を通して現れた神様の慈しみと憐れみと愛の他、私たちを正しい道に導いてくれるのは何もないでしょう。今日の第2朗読が語っているように、世の中の様々な知識や知恵をはるかに超える神様の救いの掟、イエス様の愛の掟こそが、私たちの人生の真の道であるのは言うまでもないことでしょう。

私たちは皆、自分の救いのための値を、自らは払えない弱い人間です。その私たちのために、神様はイエス様を清めの捧げもの、また、新しくて永遠の救いの契約のための捧げものとされました。その記念の祭りは毎日祝われるべきですが、今はそれができません。けれども、こんな状況だからこそ、今までの心や考えを新たにし、ミサの再開のための純朴で純粋な心を整えるべきだと思います。神殿の真っ直ぐな道を邪魔していた家畜販売人や両替人のように、信仰の道を妨げる様々な思いや習慣を捨て、新しい信仰と愛を回復し、信者の皆さんが集まって共にミサを再開することができるよう、心を込めてお祈りいたします。

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