今日はイエス様の最後の晩餐を記念する聖木曜日で、イエス様はその晩餐を持って、「信者の皆さんと共にささげるミサ」を制定されました。イエス様は神様の独り子でありながらも、すべての人の罪を赦すための小羊として神様から遣わされ、神様の慈しみと愛による救いを御言葉と御業を通して宣べ伝えられました。しかし、イエス様の務めは恵み豊かなお話を聞かせることや素晴らしい徴とか奇跡をおこなうことだけではなく、それを証しすることまで繋がらねばなりませんでした。その証しとは十字架の死を受け止めることで、イエス様はその死をもって人間に向かう神様の愛と慈しみを証明されたのです。そして、その証の務めがご自分の死で終わることのないように、今日、最後の晩餐で弟子たちにその務めを任せ、更に、同じ務めがミサの形で教会に任せられたわけです。
その最後の晩餐の様子について、ヨハネの福音は最も詳しいことまで語っています。その場で、イエス様は長い教えを聞かせ、また、意味深い祈りを神様にささげられました。その教えを纏めたら、神様とイエス様ご自身の一致の神秘やその一致に弟子たちも与ることについてのことですが、イエス様は愛によってそれができるとおっしゃいました。つまり、御父とイエス様が愛によって一致しておられるように、弟子たちも同じ愛によって神様の一致の神秘に与れるということです。その教えに続いて、イエス様は弟子たちに新しい掟を与えられましたが、それが「互いに愛し合うこと」なのです。イエス様はその掟を守ることによって、彼らがご自分の人であることが証しされ、また、ご自分と一つとなるとはっきりおっしゃいました。それからイエス様は御父に、ご自身と御父との一致に弟子たちも与ることができるよう、また、その一致を守ってくださるよう、心を込めて祈られました。確かに、弟子たちも、私たちも、愛だけによってイエス様と一致され、更に、神様と一つとなれるし、愛によってその関係を守ることになるのです。そして、その愛の務めを果たすことによって、イエス様が任せてくださった愛による神様の救いを多くの人々に伝え、また、証しすることができるのです。
さて、今日の典礼の中では「洗足式」という特別な儀式が行われます。それは最後の晩餐の時、イエス様が弟子たちになさったことを再現することで、司式する司祭が何人かの信者さんたちの足を洗うことです。イエス様は弟子たちの中、誰一人はばかることなく、皆の足を洗ってくださいました。しかも、ご自分を裏切るイスカリオテのユダの足まででした。それはまさしく僕の姿で、イエス様は自らをへりくだってご自分の弟子たちの僕となられたのです。そして一人一人の足を洗い、ついに、ペトロの足を洗おうとされたが、ペトロはそれを断りました。そこでイエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」とおっしゃいました。というのは、足を洗うことによってイエス様とのかかわりが守られるということでしょう。イエス様のその言葉は私たちにもあたります。主であり、真の先生であるイエス様がそういった模範を見せたのは、私たちもそのようにしなければならないことを教えるためのことです。しかも、最初のミサである最後の晩餐でそうなさったのは、ミサにふさわしい姿勢とは互いに僕となることであるのを示すためのことだと思います。互いに愛し合うこととは互いに僕となることから始まることかもしれません。互いに足を洗い合うこと、つまり、互いに赦し合い、理解し合い、支え合うことによって、互いのかかわりは守られるのです。そうしないと、私たちとイエス様、また、私たち同士の間には何というかかわりもないことになるはずです。イエス様の愛に満ちた最後の晩餐を記念する聖木曜日のことを心に留めつつ、これからの私たちの愛の歩みがイエス様の御体と御血によって力付けられるよう、お祈りいたします。
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