型コロナウイルス感染症のために、もどかしい日々が続いていますが、今日はうれしい儀式が行われます。それは、午後2時の「教会学校と青年たちとのミサ」の中で、二人の子供たちが初めてイエス様のご聖体をいただく「初聖体」です。例年と比べたら、今年はたった1か月の短い勉強会でしたが、毎週、勉強会を設けて準備したので、イエス様も喜んでその二人にご自身の命を与えてくださると信じています。そもそも子供たちの初聖体とは、教会全体のお祭りのようなもので、皆がイエス様の御体である一つのパンを分け合いながら、イエス様の命に与り、皆がその命に養われる人であることを表すのです。残念ながら、今日は皆が集まってその喜びを共にすることはできませんが、二人の子供たちの初聖体をもって、各自の信仰を改めて新たにすることができれば幸いと思います。そして今日はそういう観点で、福音の御言葉を分かち合いたいと思います。

今日の福音で、イエス様は12年間も出血の止まらない一人の婦人を癒やされ、また、どういう訳か分かりませんが、突然命を失った12歳の少女を甦らせました。今日の福音はその少女の父親であるヤイロという会堂長のイエス様への訪問から始まります。彼は死にそうな状態にある自分の娘を、イエス様に手を置いて癒していただきたいと願いました。そこでイエス様は彼と一緒にヤイロの家に向かいましたが、大勢の群衆もイエス様についてきました。ところが、途中でイエス様は12年間も出血の止まらないある婦人のために足止めを食うことになりました。彼女は多くの医者にかかって、酷く苦しめられ、全財産を使い果たしましたが、病気は治るどころか、むしろ、悪化しました。その苦しみの中で、彼女はイエス様に助けをいただこうとして、群衆の中に紛れ込み、イエス様の後ろからその衣服に触れました。それだけで自分は癒されると信じたのでしょう。そして、その信仰通りに、彼女の出血は全く止まりましたが、それからはイエス様の前に自分を露にせざるを得なくなりました。なぜなら、ご自分の内から力が出て行ったことに気づかれたイエス様が、ご自分に触れた人を探し始められたからです。その姿に恐れを覚えた彼女がイエス様にすべての次第を打ち明けると、イエス様は彼女の信仰を誉め、また、励ましてくださいました。

しかし、その喜びのさなかに、会堂長の娘が死んでしまったという悲しい知らせが届きました。きっと会堂長は大きな悲しみと恨みに包まれたでしょう。でも、イエス様は彼に「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われ、彼と一緒に少女の死の現場に行かれました。そして、大声で泣き騒いでいる人々を外に出し、少女の親と3人の弟子たちだけを連れて少女の所に入られ、少女の手を取って「タリタ、クム。」と言われました。すると、少女は起き上がり、歩き始めましたが、イエス様はその出来事を誰にも知らせないようにと命じ、少女に食べ物を与えるようにとおっしゃいました。いったい、今日のこの福音はわたしたちに何を示しているのでしょうか。

先ず見えてくるのは、イエス様が命の主であるということです。イエス様は今日の出来事を通して、第1朗読の知恵の書が語っているように、命の与え主である神様がご自分を遣わされたことを表わされました。知恵の書は、神様が死を造られたわけではないと強く断言しつつ、その死は悪魔の妬みの結果だとも語りました。人間はその悪魔の企みに躓いて、神様から頂いた永遠の命を失ってしまいましたが、神様はその人間を救うために、ご自分の独り子であるイエス様を世に遣わされたわけです。そのイエス様は御言葉と行いを通して、人間は神様だけに信頼を置き、神様だけに従うことによって、失った不滅の命を回復できることを示されました。聖書はその信仰と従順を「義」という特別な言葉で表しますが、イエス様はその義を十字架の死をもって完全に見せられたのです。そのイエス様が今日の福音で最も強調されたのは「信じること」でした。イエス様は病を患っていた婦人には「あなたの信仰があなたを救った。」と言われ、娘を失った会堂長には「ただ信じなさい。」とおっしゃったでしょう。それはイエス様ご自身が御父に向かって持っておられた信仰で、イエス様はそれと同じ信仰を、今日の福音を通して私たちにも教えられたのです。その信仰は神様の慈しみと愛への信仰で、イエス様はその慈しみと愛による救いを成し遂げられ、ご自分を信じる人々、つまり、教会に新しい永遠の命を委ねられました。それは、教会を通してその命がもっと豊かになるためのことでしょう。今日の第2朗読で使徒パウロはコリントの教会に、貧しいエルサレム教会のための支援を勧告しています。パウロは「釣り合い」という言葉を用いてそれを頼みました。それはコリントの教会がエルサレム教会からイエス様の救いの福音を受け継いだので、それにふさわしく報いなさいと言う風に聞こえますが、それはただの「ギブ・アンド・テイク」ではなく、「互いに愛し合いなさい」という、イエス様の掟に従うことでしょう。実際、愛の分かち合いは命を分かち合うことで、神様への信仰を実践する一番優れた方法なのです。教会はその愛の分かち合いによって信仰を証しし、また、成長して、神様の国をこの世に現わしていくのです。

さて、今日の福音で病気の婦人は「手を伸ばしてイエス様に触れ」、また、イエス様は自ら「手を伸ばして死んだ少女の手を取って」起き上がらせました。今日、初聖体をいただく二人の子供たちは、これからは私たちと同様に「自分の手でイエス様のご聖体に触れ」、いただくでしょう。この永遠の命の宴に一番必要なのは「真心から信じること」で、その信仰を込めてご聖体をいただくべきです。手だけを正しく出すことよりも、その手でいただくイエス様への信仰が大事なことです。教会も同様で、いかに活発的に活動していても、また、知識や経験、人材やお金が富んでいても、愛の神様への信仰が欠けていたら、私たちは意味のないものとなってしまうのです。これからも生き生きとした信仰を持って、皆がイエス様のご聖体で養われ、また、その愛を実践することができるよう、お祈り致します。

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