信者の皆さんも同じだと思いますが、教会で赤ちゃんに出会うことはとても幸せなことです。時にはスータンを着ている私を怖がるように、その大きな瞳をもっと大きくしたり、或いは、何の疑いも抱かずに、わたしに抱えられたりする様子は、まるで、天使が目の前にいるように感じられます。今は、わたしが歩き回りながら聖体拝領を行っていますが、以前、信者の皆さんが行列して祭壇の前まで進み出てご聖体をいただいたときには、赤ちゃんや幼子たちも親と一緒に行列に入って、祭壇まで出てきました。その一人一人の頭の上に手を載せて祝福するとき、「これ、どういうことなのか。」という表情でわたしと目を合わせる赤ちゃんの姿を見ながら、むしろ、わたしが祝福をいただくような気持になったりしました。確かに、教会に赤ちゃんや子供たちがいなければ、とても寂しい所になるはずです。今は新型コロナウイルス感染症のために、赤ちゃんや子供たちが皆と一緒にミサを捧げることが難しくなっていますが、一日も早く、皆が集まって喜びを分かち合える日が来ることを祈るばかりです。
この頃の主日の福音は、二匹の魚と五つのパンで五千人を満腹にさせてくださったイエス様の奇跡に関する御言葉となっています。先週の主日の福音で、私たちは神様の業を行うためにはイエス様を信じ、また、イエス様のように生活しなければならないということを学びました。イエス様は御父のみ旨を果たすために来られましたが、イエス様はそれを十字架の死と復活によって神様の救いの御業を全うされたのです。そしてイエス様は、ご自分に従って神様の業を行おうとするすべての人のために、「天から降って来たパン」としてご聖体の形でご自分の命を分け与えられ、信仰のある人々がいつもイエス様と共に生き、また、働けるようにしてくださったのです。
しかし、イエス様の奇跡によって満腹した後、再び集まった群衆は、イエス様が自らを「天から下ってきたパンである。」とおっしゃった言葉に躓いてしまいました。彼らは自分たちが知っているイエス様についての情報に拘り、イエス様を信じるどころか、むしろ、イエス様を疑い始めたのです。その情報とはイエス様の家族のことでしたが、彼らはイエス様がただの人間にすぎないのに、どうして自分を天から降って来たパンだと言えるのか、という疑いに陥ってしまいました。そこでイエス様は「御父の導き」についての話をしながら、その導きに素直に従うことによって、神様が世の救いのためのいけにえとしてご自分を遣わされたことを知り、真の命のパンを得ることができるということを教えられたのです。そしてイエス様は、荒れ野でマンナを食べながらも結局死んでしまった先祖たちのことを思い起こさせながら、イエス様ご自身を真の命のパンとして認め、また、信じ、食べる人は決して死なないとも言われました。先祖たちはエジプトや荒れ野で神様が示してくださった多くのしるしを見ながらも、神様を信じず、むしろ、もっと多くのしるしを要求したりして、神様を試そうとしたでしょう。イエス様はその愚かな歴史を思い起こさせて、イエス様ご自身と神様を信じるように導こうとされたのです。
三週間にわたって語られた福音を黙想しながら、わたしはイエス様が何を教えようとされたのかを、ちょっと纏めてみました。そして、それは「先ず、イエス様のもとに来ること、そして、イエス様を信じること、また、イエス様を食べることだ。」と考えました。事実、五千人の群衆はイエス様が見せて下さった様々なしるしに導かれ、更にパンの奇跡に導かれてイエス様のもとに来たわけです。しかし、その外見的なしるし、また、人間の欲心を満たしてくれるしるしだけに拘ったら、イエス様の真の姿が見えなくなるでしょう。イエス様の真の姿とは慈しみ深い神様の小羊で、神様の愛による救いを全うする為のいけにえなのです。そのイエス様が教えて下さったのは、全ての人が神様の慈しみと愛に倣って、互いに愛し合うことでした。それによって私たちは神様の永遠の命に与れることを、イエス様は教えて下さり、すべての人がそれを信じるようにと導いて下さったのです。また、その救いのしるしとして、イエス様はご自分の体を永遠の命のパンとして与えそれを食べるように、その御体と御血を教会に任せてくださったのです。私たちが教会に来るのはイエス様の愛のもとに来ることで、私たちは教会で学んだ愛の生き方、すなわち、互いに愛し合うことによる救いを信じているのです。また、その愛のしるしであるイエス様の御体をご聖体の形で頂いて、この信仰の旅路の糧としているのです。その一連のイエス様の教えを考えてみたら、そこにはただの愛と慈しみだけがあることが分かります。それで今日の第2朗読で使徒パウロは、イエス様がご自分を愛のいけにえとして捧げられたことを語りながら、だから教会の人たちは、「無慈悲、憤り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨て」、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、赦し合い」、また、愛し合うことを勧めているわけです。それこそがイエス様に従って信仰の旅をしている人たちの真の糧で、私たちはその糧から力づけられるべきなのです。
慈しみ深い神様は、私たちの信仰の旅がどれほど長くて辛いものなのか、よくご存じです。それは今日の第1朗読で、御使いを通してエリヤを力づけ、また、慰めてくださったことからも確認できますが、実際、神様は私たちと共に旅をするために、イエス様をお遣わしになったのです。親の手を取って導かれる子供たち、また、親の懐に抱えられて祭壇の前に出てくる赤ちゃんたちのように、私たちもイエス様の愛に素直に導かれ、そのもとに来て、同じ信仰を告白し、また、愛し合いながら、イエス様の愛のご聖体を分かち合うことが大切なことです。教会がそうなると、皆がこの信仰の旅を喜びと愛の中で歩めるでしょう。これからも私たちがこの聖なる旅を全うすることができるよう、お祈りいたします。
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