今日の福音で、イエス様はガリラヤのカナで行われた婚礼に招かれて、水をぶどう酒に変え、ご自分の初めてのしるしを示してくださいました。そもそも、イスラエルの婚礼は当日の儀式だけでなく、それから始まる婚宴の期間全体をも含んでいるものです。その間、参列者たちは互いに喜びを分かち合いながら、新しい夫婦にもアブラハムへの祝福、すなわち、多くの子孫と幸せな家庭が恵まれるよう願うのです。ですから、婚宴の期間が長ければ長いほど、喜びと祝福はもっと豊かになるわけです。その婚宴に欠いてはいけないものがまさにぶどう酒ですが、今日の福音に記されている新しい夫婦は、それほど多くのぶどう酒を用意することができなかったようです。残念なことに、このかわいそうな夫婦の婚宴は、ぶどう酒が尽きたときに終わらなければなりませんでした。
でも、ちょうどその時、イエス様と共にその婚礼に与っておられた母マリアは、その状況をイエス様に伝えました。それを聞いたイエス様は、「わたしの時はまだ来ていません。」と答え、その貧しい夫婦を助けるつもりはないという風に反応されました。そこで、マリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください。」と言っておきました。その後、イエス様は召し使いたちに、「清めのために用いる六つの水がめ」に、「水を一杯入れなさい。」と命じられました。また、彼らがその通りにしてからは、「それを汲んで宴会の世話役のところへ持っていきなさい。」と言われました。召し使いたちはそれを世話役のところに運びましたが、彼らが運んだ水はもう良いぶどう酒、しかも、その時までのものよりも、もっとおいしいぶどう酒と変わっていたのです。こうして、イエス様はご自分の最初のしるしを示されましたが、そのお陰で、その貧しい夫婦の宴会とそれに伴う豊かな祝福と喜びは、尽きないものになったことでしょう。
ところで、今日のイエス様のしるしは、神様ご自身が用意してくださる天の国の永遠の宴を前もって表しています。その宴は神様の御独り子であるイエス様と新しい民との婚礼の宴で、その民は真心をもって神様を信じ、また、イエス様の生き方に従う人たちなのです。イエス様はご自分に従って生きる人たちをご自分の花嫁のように迎え、神様の国の永遠の宴に与らせてくださいます。その時、彼らの生き方の正しさは、今日の第一朗読に書いてある通り「光と輝き出で」、彼らの救いは「松明のように燃え上がるでしょう。」。世の中のことにこだわっている人たちの目には、イエス様に従う人たちが、まるで「捨てられた女」や「荒廃」に見えるかもしれません。しかし神様は、イエス様の生き方、すなわち、愛に生きる人たちを、「望まれるもの」や「夫を持つもの」として認め、ご自分の独り子の花嫁として受け入れてくださるはずです。そして、神様は彼らに永遠の命を与え、終わりなくその宴の喜びを味わうことができるようにしてくださるに違いありません。
実に、わたしたちはすでにその宴に招かれていて、このミサの中で神様の小羊であるイエス様の食卓に与っています。イエス様は最後の晩さんの食卓で、愛の秘跡である聖体の秘跡を制定され、十字架の食卓で、その愛を証しされました。イエス様はご自分の御血によって私たちの罪を洗い、ご自分の御体を新しい命の糧としてくださったのです。イエス様はその御血をぶどう酒の形で、また、その御体をパンの形でわたしたちに与え、わたしたちはそれをミサの中で分け合っているわけです。それを考えたら、わたしたちのうちに、神様が用意しておかれた永遠の宴はもう始まっていると言っても、それは過言ではありません。ですから、その宴であるミサを大事にし、また、ふさわしい心で与るよう、事前に、自分を低くし、悔い改めることはとても重要なことだと思います。
さて、今日の福音でイエス様はご自分の時がまだ来ていないとおっしゃいました。それはまるで、ご自分の時が整っていないという風に聞こえます。その時を整えるには何が必要でしょう。それは今日の福音で、聖母マリアが召し使いたちにおっしゃった言葉から少し分かります。つまり、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください。」ということです。イエス様の時とは、私たちが素直にイエス様に従う姿勢を整えるとき来るものだと思います。自分なりのやり方や様々な考えにこだわったら、イエス様の時は決して来ないでしょう。また、今日の福音で、イエス様は六つの水がめに水をいっぱいに入れるようにと言われました。その水がめは清めのためのものでしたが、「いずれも二ないし三メトレテス入りのもの」でした。私たちも同様です。神様にとって私たちは皆弱くて憐れな者で、だからこそ、私たちの間には一切の差別やいじめ、妬みがあってはいけません。むしろ、皆が謙遜となって、互いに支え合うことによって、皆が支えられることを認めねばなりません。その同じ水がめのような私たちに、神様は教会の様々な役割を任せてくださいます。でも、それを果たすことができるようにしてくださるのは、今日の第二朗読で使徒パウロが言っているように、神様のただ一つの霊なのです。その霊とは言うまでもなく神様の慈しみと愛の霊でしょう。神様はその霊によって、私たち皆を丈夫に養ってくださるのです。最後に、今日の「聖書と典礼」によると、一メトレテスは約39リットルです。39という数字は聖書の特別な意味の40という数字に1足りない数です。その1とは何でしょうか。それはイエス様の愛でしょう。つまり、イエス様の愛がなければ、いかに優れた活動や役割を果たしていても、それはただ水のような味にしかなりません。清めのための水がめのような私たちは、そのイエス様の愛によって喜びと幸せの水がめとなり、至る所でその喜びと幸せを伝えることができるのです。私たちがイエス様に素直に従い、愛のかめとなって、また、その愛を運ぶ召し使いとなることができるよう、お祈りいたします。
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