今日は年間第三主日で、「神のみことばの主日」にあたります。それは全世界の信仰のある人たちが、神様の御言葉にもっと忠実になるようにと、教皇フランシスコによって制定された主日です。日本教会の場合はどうか分かりませんが、韓国の場合、「カトリック教会の信者さんたちは、聖書をあまり読まない。」という風評を受けています。本当に残念なことだと言わざるを得ません。実に、わたし自身も今まで、創世記からヨハネの黙示録までの全ての聖書を読んだのはただ一度だけですので、弁明の余地は全くないと、今日の御言葉を読みながら改めて反省しました。信仰のある人たちにとって神様の御言葉とそれが書いてある聖書は、言うまでもなく「命の泉」です。つまり、わたしたちは聖書から、また、その聖書を通して与えられる神様の御言葉から、この世の中で揺らがずに生きていく為の力をいただくのです。事実、神様はご自分の御言葉であり御独り子であるイエス様を遣わされ、そのイエス様を通して人生の真の道を示されました。その道は永遠の命に至る道で、イエス様はその道を様々な教えとしるしを通してはっきりと見せて下さいました。それは勿論、愛の道で、イエス様は神様がその愛によって人間を救おうとされるのを知っておられたわけです。そこで、今日の福音でイエス様はご自分の公生活を始めるにあたって、イザヤの預言を選ばれ、それをご自分の人生のキャッチフレーズとされたのです。
今日の福音で、霊の力に満ちてガリラヤに戻られたイエス様の評判は、周りの地方一帯に広まり、諸会堂でイエス様の教えを耳にした人々は皆、イエス様を尊敬していました。その時、きっとイエス様は「とても立派な説教家」として評価され、イエス様の話を聞こうとする人たちもますます増えていたはずです。そんな中、イエス様はご自分の故郷のナザレに来られ、いつものとおり安息日に会堂に入られ、聖書を朗読しようとお立ちになりました。そのイエス様に渡された聖書はイザヤの巻物でしたが、イエス様はその中のある箇所に目を留められたのです。その箇所とは、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」という箇所でした。まさに、その箇所はイザヤの預言者としての召命に関するもので、イエス様はその召命をご自分のものとして受け止められたのです。そのイエス様に全ての人の目が注がれていましたが、それは、その箇所について「立派な説教家である」イエス様がどう教えるかを聞くためでしょう。そこで、イエス様はその箇所についてとても簡単で短いコメントから話し始められました。それは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」という言葉でした。それはご自分の使命についての、なんと荘厳な宣言でしょう。
事実、イザヤは苦しみを受ける主の僕として、いつか必ず来られるメシアの使命について預言しました。それが今日の福音でイエス様が選んだ御言葉で、イエス様はただ「立派な説教家」ではなく十字架の苦しみを受け止め、神様が望んでおられる真の救いを成し遂げようとされたのです。言い換えればイエス様は口だけの教えだけでなく、実際の行動を通して神様の慈しみと愛による救いを完成されました。イエス様は貧しい人たちに神様の国の福音を告げ、彼らがその国の民となることを教えられました。また、悪霊に取りつかれていた人たちや自分の罪に捕まっていた人たちを解放してくださいました。目の見えない人は勿論、色々な病気で苦しんでいた人たちを癒してくださり、世の中の様々な力に疲れ果てていた人たちには、自由と安らぎを与えてくださったのです。その全ての教えやしるしは、神様の国がイエス様ご自身によってすでに来ているのを証しするものなのです。そこでイエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」とおっしゃったわけです。イエス様の言われた「今日」とは「まさに今」という意味で、「あなたがたが耳にしたとき」、つまり、わたしたちが御言葉に耳を傾けるときイエス様はそこにおられ、その言葉どおりになさるという意味です。言い換えればわたしたちが真心で御言葉を聞き、それに素直に従うとき、イエス様はすぐそばにおられ、愛と慈しみの道、救いと回復の道、自由と平和の道に導いてくださるということです。逆に言うと、そのような道に導かれない人は、御言葉を聞いても相変わらず自分なりの道、すなわち、傲慢と独善の道を歩むはずです。その道は不満と恨み、不和と分裂への道に違いありません。
今日の第一朗読で、バビロンから解放されたイスラエルの民は、エズラやレビ人たちに励まされました。彼らは自分たちと先祖たちの神様への不従順に対して涙しながら、神様のみ言葉に耳を傾けていました。その束縛の年月があまりにも長かったので、彼らはもう先祖たちの言葉を忘れてしまい、翻訳や通訳がなければ、神様の御言葉を聞くことも、理解することもできなくなったわけです。ここに「神様への不従順」という罪の恐ろしさがあるのです。その不従順の心は神様への謙遜の心を崩し、また、隣人への愛と尊重する心をも失わせます。そうなると、残るのはそれぞれの人間的な思いややり方、力比べだけで、わたしたちはそれを警戒しなければなりません。そうしないと、教会はもはや命の泉であるキリストのものではなく、一部の力強い人たちの集団、声高な人たちの専有物となってしまうはずです。
そこで、今日の第二朗読で使徒パウロはコリントの教会に向かって、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と言いました。パウロはコリント教会がそれぞれの異なる意見や人間的な知識、世の中のやり方に揺らぐことを戒めたのです。キリストの体の一部分となっている人たちの間には、一つの愛の霊による絆だけがあり、その絆によって、わたしたちはキリストの体を共に支えることができ、この世の中で神様の慈しみと愛による救いを証しすることができます。その絆を保つために必要なことは、まず、神様のみ言葉とイエス様の福音に忠実となることです。そして、この愛の晩餐であるミサを大事にすることです。この二つの柱がなければ、私たち信仰のある人たちの命は、もうその泉を失ったと言っても過言ではありません。これから、信者の皆さんが、神様の御言葉に素直に従われたイエス様のようになり、この信仰の道を忠実に歩むことができるよう、お祈り致します。
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