今の時代にはあまり見かけませんが、わたしが助任司祭として働いていた時代には、いわゆる「爆弾神父」と呼ばれる先輩司祭たちが、たまに若い助任司祭たちの口に上ったりしました。「爆弾神父」とは、周りの人たち、特に、共に働く助任司祭を苦しめる神父のことです。司祭のことを司祭が話すのはちょっと避けたい気持ちもありますが、少しその司祭たちの特徴について話したいと思います。「爆弾神父」は、いつも目上の人のように振る舞い、助任司祭や信者たちを、まるで、自分の僕のように扱います。また、周りの人たちの気持ちや心情などに気を遣わず、自分の考えややり方が一番正しいと主張し、他の人の意見や話には耳を貸そうともしません。何か意見を出しても、その司祭の口からは「どうぞ」どころか、いつも「ダメ」が先に聞こえます。何においても干渉し、口を出し、公の場で人をはずかしめ、時々わけもなく怒ります。自分には憐れみ深いですが、他人には厳しく、慈しみや憐れみにはけちでありながら、他人からはそれをもらいたがります。そういう司祭と一緒に生活する助任司祭や、共に働く信者たちは、不満があってもそれを口にすることはできず、ただただ、早く人事異動の日が来ることを願うしかありません。「爆弾神父」の様子について長く話しましたが、わたし自身もいつ他の司祭や信者から「爆弾神父」と呼ばれるかも知れませんので、それについて話すのは、これで終えた方がいいと思います。

今日の福音で、イエス様はとても難しいことを私たちに望んでおられます。自分に悪いことをしている人を赦すだけではなく、愛するように、また、何かを求める人には、誰にも与えるようにと要求しておられるのです。しかも、与える際には、同じものを返してもらおうとしてはならないという風にもおっしゃいました。それは何と愚かなことだと思うでしょう。しかし、イエス様はそのようにふるまう人には「たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」と、はっきり言われました。逆に言うと、わたしたちがたくさんの報いをいただくため、また、いと高き方の子となるためには、そのように生きるべきだということでしょう。考えれば考えるほど、難しくて愚かな生き方だと言わざるを得ません。なぜイエス様はそれほど無理なことを私たちに求められるのでしょうか。

今日のイエス様のお話の中には、いわゆる「黄金律」というものがあります。すなわち、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」という箇所です。これを言い変えたら、「人にしてもらいたくないと思うことを、人にもしてはならない。」となるでしょう。つまり善いことであれ、悪いことであれ、他人からしてもらいたいことをし、してもらいたくないことはしないようにせよということです。どうして私たちがそうするべきなのかについて、イエス様がおっしゃったのは、やはり、わたしたちはいと高き方の子となるためだということです。そのいと高き方、すなわち、神様である御父が情け深く、憐れみ深い方だから、その子となるためにはその方と同じようになるのは当然でしょう。神様は全ての人、特に、自分は信仰のある人だと言っている人たちが、その信仰の教え通りに生きることを望まれます。わたしたちの信仰とは、慈しみと憐れみに満ちておられる神様に向かうことで、イエス様はその神様の姿を、愛を持って証しされました。ですから、わたしたちが神様の子となるためには、イエス様が示された愛の生き方に沿って生活することが大事なのです。その愛の生き方こそ、まさに今日イエス様がおっしゃった「黄金律」なのです。

実に、わたしたち自身も最後のアダムであるイエス様の十字架上の死によって、アダムの罪から解放されました。これは今日の第二朗読通りですが、わたしたち信仰のある人たちは、最初の人のように「土ででき、地に属する者でしたが」、「天に属する第二の人」、すなわち、キリスト・イエス様によって同じく「天に属する者」としての資格をいただいているのです。今日の第一朗読で、ダビデは赦しを通して、サムエルの命を守ってあげたように、イエス様はご自分の命を捧げて私たちの命を守ってくださいました。同じく、わたしたちも、互いに愛し合い、赦し合い、支え合い、受け入れ合うことによって、互いの命を守ることになるのです。

わたしたちがそのように生きるためには、先ず、自分の秤をもっと豊かにする必要があります。一つの秤しか持たない人は、ただその秤だけで考えたり、話したり、行動したりするだけでしょう。でも、多くの秤を持っている人は、様々な状況や事情を調べ、また、相手の思いや話や行動を見つめながら、適切な秤を使います。その秤の中で一番優れているのは、もちろん、愛の秤でしょう。そして、もう一つわたしたちに必要なのは、自分がして欲しいことは何か、嫌がることは何かを知ることです。それを知らなかったら、相手に何をすべきか、してはいけないのかが分かりません。そうなると、すべてを自分勝手に判断し、その思いや言葉や行いによって、他人を傷つけてしまうばかりか、自分は正しいことをやったと思ってしまうでしょう。何と愚かで憐れな人でしょうか。先ず、自分がしてもらいたいことと、してもらいたくないことを調べ、賢明に振る舞うべきです。

さて、説教の冒頭で「爆弾神父」について話しましたが、「爆弾信者」がいることも忘れてはなりません。様子は似ていますが、「爆弾神父」は人事異動によってほかの所に行ったらそれで終わります。しかし、「爆弾信者」は引っ越しさせることもできません。実は「爆弾神父」も「爆弾信者」も、人々からの愛に渇いていることから生まれるのです。つまり、互いに愛し合うことによってその渇きを癒し、「爆弾造り」を終えることができるということです。これからも、愛深い共同体となって、神様の御国に向かって共に歩む兄弟姉妹として生きてまいりましょう。

神父様のお説教ふりがな付きはこちらからダウンロードしてください。

☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のしための祈り ⇒ COVID-19inoriB7i