韓国の神学校は生活規則が厳しくて、それに従ってしっかり生活しなければ、退学を命じられる場合もあります。神学校の規則はいろいろありますが、その中に「大沈黙」という規則があります。それは、晩の祈りが終わってから、翌日朝起きるまで、絶対に話してはいけないという規則です。その規則は、夜寝る前に心を静かにし、内的な平和の中で神様との関わりを味わわせるためのものでした。しかし、その素晴らしい規則は、生まれて初めて経験する新入生たちにとって、耐え難い規則に違いないでしょう。わたしもそうでしたが、今日の福音を考えながら、その規則に関するあるエピソードが頭に浮かびましたので、今日は先ず、それについて語りたいと思います。わたしが神学校に入学した1986年は、4年に一度のサッカーワールドカップ大会があった年でした。ところが、その予選は外国で行われたので、韓国では平日の夜中の1時頃に放映されました。神学校にもテレビはありましたが、それを見ることが出来るのは、毎日夜6時半から30分間、土曜日の昼間と夜、そして、日曜日だけでした。その時代、1年生から3年生の200人ぐらいの神学生たちは一ヶ所の建物で一緒に生活し、テレビは地下の休憩室にありましたが、その予選のゲームをなんとしてでも見たかったのです。そこで、3年生の先輩たちが主動となって、およそ90人がその深夜のサッカー中継を大沈黙の中でこっそり観戦しました。ところが、わたしたちのその様子を、わたしたちよりもっとこっそり、外から見ていた瞳があったことには、誰も気づきませんでした。その瞳とは、神学生たちの間で怖い方だと評判の、ある教授神父様だったのです。何も知らずにその夜のサッカー中継を楽しんだ私たちは、翌日、緊急教授会議が行われると聞き、皆、震え慄き始めました。なぜなら、その会議はわたしたちの悪行を議論する懲罰会議だったからです。刻々と耳に入ってくる色々な情報を聞きながら、皆、不安と心配でいっぱいになっていました。果たして、会議の結果が発表された時、わたしたちは「良かった!」と安堵しました。なぜなら、わたしたちに下された罰は、反省文としばらくの外出禁止だけだったからです。そして、それほど軽い罰で済んだ理由を聞き、皆驚嘆しました。実は、その会議の中では、どのくらいのレベルでわたしたちを罰するかが議論され、結論として、私たちに反省文と外出禁止の懲罰をまとめていたわけです。そんな中、一番若い神父様がより厳しい罰を強く訴えて議論が長引いていました。ところが、ある大先輩神父様の一言で、その議論に終止符がうたれました。その大先輩の神父様は、もう引退して神学生たちに霊性生活を指導しておられました。議論が激しく続けられていた最中、大先輩神父様はその若い神父様のお名前を静かに呼びながら、次のようにおっしゃったわけです。「あなたが神学生の時、あなたはもっとひどかったですよ。」と。その一言で長い会議は終わって、わたしたちは救われました。今わたしがここにいることができるのも、その大先輩神父様のお陰だと思います。

今日の福音の中で、イエス様は死の恐怖で震えていたあるかわいそうな女を救ってくださいました。彼女は、姦通の現場で捕らえられ、そのまま律法学者たちやファリサイ派の人々に囲まれて、イエス様のところまで引かれてきたのです。それは、彼女についてのイエス様の意見を聞くためではなく、イエス様を試し、それからイエス様を捕らえるための口実を作るためでした。彼らはイエス様にモーセの律法を掲げながら、イエス様の考えを求めましたが、不思議なことに、イエス様はすぐ答えるどころか、ご自分の指で地面に何かを書いておられるばかりでした。彼らはその姿に我慢できないかのようにしつこく問い続けていました。そこで、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われ、悪意と殺気に満ちていた彼らを静められたのです。そして、それを聞いたものは、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去り、ついにそこにはイエス様とその女だけが残っていました。きっと彼らは、自分たちが生きてきた長い年月を顧みていたでしょう。その長い人生の道が、どれほどの罪と過ちに満ちていたのか、彼らはその時、初めて気づいたに違いありません。最後に、イエス様は彼女に「誰もあなたを罪に定めなかったのか。」と言われ、更に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」とおっしゃって、彼女を赦してくださったのです。

わたしは今日の福音を黙想しながら、イエス様がその女と彼女を捕らえてきた人々に、人生の新しい道を示されたと思いました。それは勿論、罪から離れる道ですが、愛とそれに基づいた赦しの道でもあります。イエス様のところに集まってきた人たちは、いつもと同じく、自分たちが歩んできた裁きの道を歩んでイエス様のところに来たわけです。しかし、イエス様から立ち去る道は全然違う道となったはずです。彼らがその新しい道を歩んでいくかどうかは分かりませんが、イエス様が示された道の正しさと素晴らしさは、彼ら自身も認めざるを得なかったと思います。その道こそ、今日の第一朗読が語っている神様の新しい道であり、また、使徒パウロが最後の最後まで走り抜こうとしていた道でしょう。その道は裁きとその結果の苦しみと涙の道ではなく、愛と赦しと命の道なのです。裁きの道は人殺しの道ですが、愛と赦しの道は人を生き返らせる道です。それはイエス様ご自身が歩まれた道で、わたしたち信仰のある人たちがその道を歩むのは当たり前でしょう。

イエス様は今日、人殺しのために石を持っていた人たちの中で、ご自分の指で地面に何かを書いておられました。それをよく見た人はいなかったようです。わたしは、イエス様がわたしたちのためにも何かを書いておられたのでは、という気がしました。残りの四旬節の間、わたしたちはそれについて黙想してみてはいかがでしょうか。このミサの中で、その恵みの時間を祈り求めましょう。

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