わたしは今、日本で宣教司祭として働いていますが、「宣教」という言葉を聞く度、いつも頭に、ある二つの話が浮かんできます。その一つは、昔ある先輩の神父様から言われた、「宣教司祭としてしっかりと生きるためには、自分がいるその地域で、自分が葬られることを覚悟しなければならない。」という言葉です。そして、もう一つは、二俣川教会で働いた李神父様から言われた、「日本で宣教するためには、日本と日本人を愛さなければならない。」という言葉です。この二つの言葉をそれぞれ聞いた時のわたしの気持ちは、「そうかな」という印象でした。「そうかな」という思いは、その頃感じていた、「宣教」という活動は私には合わないものという気持ちを、それとなく表現していたのでしょう。でも今は、「そうかな」という気持ちから、「なるほど、そうだな」という気持ちに変わっています。「なるほど、そうだな」と思うのは、「やはりそういう姿勢でないと、宣教司祭として生きるのは大変難しいのではないか。」と強く同意するからです。さらに一歩進んで言うと、自分の宣教地域とその地域の人々を愛することや、その地域で葬られる覚悟を持って生きることも、実は、自分自身をイエス様に任せなければできないことではないかと思います。

今日の福音で、イエス様は別の七十二人を任命し、ご自分が行くつもりの町や村へ二人ずつ送られました。その際、イエス様は色々厳しいことを指示されましたが、それらの指示は、これからはすべてのことをイエス様に任せなければならないということを示しているのです。そのイエス様の指示によると、彼らにはお金を入れる財布や、万が一の場合を考えて必要な物を準備して入れる袋、しかも、履物まで許されませんでした。彼らはまるで、物乞いのようにならなければならなかったのです。それに加えて、彼らは途中で誰かに挨拶さえしてはいけませんでした。それは、彼らに任せられた任務の大事さを表すことで、挨拶する暇もないほど、その任務はすばやく果たされなければならなかったのです。その任務とは何でしょうか。それは病人をいやすことと、「神様の国はあなたがたに近づいた。」ということを宣べ伝えることでした。世の中の人たちの目には、その任務はとんでもない任務のように見えるかもしれませんが、その任務を果たすために選ばれた人々にとって、それは決して軽んじてはいけない、一番大切な任務に違いありません。イエス様の厳しい指示は、その事実、つまり、「彼らがその任務のために選ばれた人である。」という使命を忘れないようにするためのことだったでしょう。その任務はイエス様ご自分の任務で、イエス様は人々の中におられる神様として来られ、様々な教えやしるしを通して、神様の慈しみと愛を証しされました。さらに、十字架上でそれを最もはっきりと示してくださったのです。そして、今日の福音で、イエス様はご自分のその大事な任務を七十二人の弟子たちに任せてくださったわけです。

その任務に招かれた人として、弟子たちには先ほどの厳しい指示と共に、二つの大切な務めを指示されました。それは収穫の主に「働き手を送ってくださるように」と願うことと、どこかの家に入ったら、まず、「この家に平和があるように」と言うことでした。言い換えれば、彼らは自分たちと共に平和のために働く人たちを、神様ご自身が増やしてくださるように願いつつ、平和のための働き手としてのアイデンティティを忘れてはならないということです。実にイエス様は、神様の慈しみと愛による救いの御業を、十字架上の死によって全うされ、様々な悪に染まっている世の中に、真の平和を示してくださいました。イエス様の十字架によって、色々な理由で恨みと憎しみ、妬みと争いに満ちていたエルサレムは、今日の第一朗読に書いてある通り、愛と慈しみ深い母親のようになり、すべての人がその十字架から、恵みと喜び、愛と慰めを得るようになったのです。こうして、イエス様の十字架は、人種や民族、国籍や地域を始め、あらゆる条件による差別を超えて、真の愛と平和のしるしとなりました。今日の第二朗読で、使徒パウロはその十字架が自分にとって、誇りであると公に宣言しました。その十字架によって、異邦人にも神様の慈しみと愛が恵まれたことを確信していたパウロにとって、その十字架が誇りだと思うのは当たり前だったでしょう。そして、わたしたちもその愛と平和のために働く働き手として招かれているわけです。

今日の福音には、その働き手となっている人々の姿について、とても大事なことが書いてあります。今日の福音で、イエス様は七十二人の弟子たちに次のようにおっしゃいました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」と。この御言葉は、まるで「あなたがたは小羊とならなければならない。」という風に聞こえます。わたしたちは神の小羊として、ご自分の命を捧げてくださったイエス様のような小羊となるために、このミサに集められ、イエス様の御体をいただいているわけです。そして、小羊としてそれぞれの生活の現場に送られるのです。でも、小羊だと思って教会に集め、また、送ったのに、教会の中でも外でも、狼よりはるかに怖い者のように振る舞ったら、それは大変なことになるでしょう。みんなが、イエス様の御体に養われて、もっと優しい小羊、もっと愛に満ちた小羊とならなければならないと思います。それこそが、教会と世の中で奉仕するようにと召された、わたしたちの真の姿に違いありません。そして、その姿を見た多くの人たちにも、イエス様の福音が宣べ伝えられるはずです。

宣教司祭は自分の地域とそこの人々を愛し、自分もそこに葬られることを望まなければならない、それは、すべての人を愛し、その愛で命をささげられたイエス様のようにならなければならないという意味でしょう。司祭のわたしだけでなく、みんながそうなれるよう、お祈りいたします。

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