司祭はミサの中で、度々手を広げて祈りや他の式文を唱えます。その動作には色々な意味がありますが、大体二つにまとめられます。その一つは、祈りや式文に込められている共同体の願いを神様に捧げるという意味です。司祭は自分の両手にその願いを載せて高く上げ、神様に捧げます。そして、司祭が手を広げるその動作のもう一つの意味は、共同体と神様との間にある「扉を開く」ということです。つまり、司祭は自分の手を広げて、共同体の皆さんと神様との間にある「扉を開き」、神様に色々な願いを祈り賛美を唱えます。その意味から考えると、司祭には地上の教会において、門番のような役割が与えられていますが、結局その扉を開閉する権利は、神様だけが持っておられるのでしょう。今日の福音で、イエス様はそれをはっきりと示し、また、だれがその国に入れるのかについても教えてくださいました。
今日の福音はイエス様が、「町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられた」ことから始まります。これは、イエス様の教えが多くの人たちに伝えられていたことを表していて、それを聞いた人たちは皆、イエス様の十字架上の死の現場、また、復活の現場に招かれたことを示すことでしょう。すると、ある人がイエス様に、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」と聞いたのです。そこで、イエス様は例え話を用いて答えられたわけです。
イエス様は先ず、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と言われました。これは神様の国の戸口に関する御言葉で、神様の国に入るのは大変難しいことを表しています。その話に続いてイエス様は、「自分の家の戸を閉める主人」の例え話を語られました。その例え話によると、主人が自分の家の戸を閉めてからは、誰も、しかも、その主人と一緒に食べたり飲んだりしたし、その広場で主人の教えを受けた人たちすら入ることができなくなる。そればかりか、彼らは主人から「お前たちがどこのものか知らない。」という言葉を二回も言われ、さらに、「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ。」という酷い言葉まで聞くことになります。イエス様はここまでおっしゃった後、「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブや全ての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。」と言われました。そして、東西南北から来た人々が、神様の国で宴会の席に着くが、そこでは、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」ともおっしゃいました。
ここで信者の皆さんと共に考えてみたいことがあります。それは、「なぜその主人は自分と関わりのある人たちを拒んだのか。」ということです。簡単に言うと、それは彼らが「不義を行う者たちだった」からです。この例え話は、勿論、神様の国に関するもので、ここに登場する「主人」とは、イエス様ご自身であるのが分かります。つまり、イエス様はご自分との関わりがいかに多かったとしても、不義を行う人たちを受け入れてはくださらないということです。それでは、誰が義人であり、誰がそうではないのでしょうか。それは、神様から遣わされたイエス様のみ言葉を聞き、また、その通りに行う人たちか否かでしょう。実に、今日の例え話の中で、主人から拒まれた人たちは家の中にいる主人に、「ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです。」と言いました。でも、彼らは一緒に食べたり飲んだりしたり、その教えを聞いたりしただけで、実際にはその教え通りに生活せず、むしろ、罪や悪を積み重ねてきたでしょう。それを考えたら、イエス様を知り、また、信じているとしても、そのイエス様が教えて下さったことを実行しなければ、その信仰は無駄なものとなり、結局イエス様に認められないことになります。では、イエス様が教えられたこと、また、わたしたちが行うべきこととは何でしょうか。それは言うまでもなく、「互いに愛し合いなさい。」という掟です。わたしたちがその掟を守り、また、実践することこそが、わたしたちを鍛えてくれると、今日の第二朗読に書いてあります。イエス様はその愛の鍛錬によって、わたしたちをご自分の十字架上の死の現場に招き、また、復活の現場に導いてくださいます。そこでイエス様はわたしたちを強め、もっと多くの人たちに神様の救いの神秘を宣べ伝える力を授けてくださいます。そして、今日の第一朗読に書いてあるように、私たちはその愛の行いを通して、人々を神様への捧げものとして捧げることができるのです。そう考えたら、日々の生活の中で愛を実践する度に、わたしたちはまるで神様と世の中の間にある「扉を開いて」、自分の両手にその愛を載せ、それを高く上げて神様に捧げることになるでしょう。
さて、神様の国の戸口はどれほど狭いでしょうか。それはイエス様がかつておっしゃったように、針の穴ぐらいかもしれません。世の中に拘って、何もかも手に入れようとする金持ちはその穴を通れませんが、イエス様の愛によって鍛えられた人々は簡単に通れるでしょう。これからも、わたしたちがイエス様の愛の生き方に沿って生きて、みんなが神様の国の宴会の席に座ることができればと思います。このミサの中で、心を込めてその恵みを祈り求めましょう。