今日の福音は、大勢の群衆がイエス様についてきたときの様子から始まっています。この場面は多分、イエス様がエルサレムに向かっておられるときのことだと思いますが、イエス様はその群衆を振り向いて、「わたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」とおっしゃいました。また、「塔を立てようとする人の例え話」と、「自分の二倍の兵を率いてくる敵とどう向き合うかについての例え話」を聞かせてくださいました。そして、イエス様は今日の福音の結論として、「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」とおっしゃいました。
今日の福音のメッセージは勿論、「だれがイエス様の弟子としてふさわしいのか、或いは、イエス様の弟子となるためにはどんな心の姿勢を持つべきか。」ということでしょう。でも、それについてのイエス様のお話はとても酷くて、まるで、すべての家族の絆や、いのちさえないがしろにしておられるかのように聞こえます。しかし、イエス様は今日の話を通して、ご自分の使命について示され、更に、その使命を共にする人とはだれかについて教えられたのです。興味深いことに、そのお教えは今日の二つの例え話から見つかります。
先ずは「塔を建てようとする人の例え話」です。この人はなぜ塔を建てようとしていたのでしょうか。普通、塔を建てるのは、自分の功績や業績などを多くの人たちに知らせ、自分の名声を広めるため、つまり、自分を誇るためです。でも、自分にその工事のための費用が十分かどうかを真剣に考えないと、途中であきらめなければならない状況に陥り、その塔の完成を待ちに待っていた人たちのあざけりの的となるかもしれません。ですから、塔を建てようとする人は、何としてでもその費用を工面するため自分の持ち物を全部売り払い、塔を建てるためにそのお金を使うはずです。この例え話は、自分の名誉のためなら、人間はそういう投資をするということを表しているようです。しかし、ここにイエス様の「使命」が現されているのです。その使命とは、イエス様が建てようとしておられた「真の塔」のことで、それは言うまでもなく「十字架」という塔でしょう。
イエス様は、人間だったらだれもが避けたがるに違いない十字架上の死を、素直に受け入れられました。それは、ご自分の名誉のためではなく、御父である神様の慈しみによる救いの計画を全うするためでした。その使命を果たすためにイエス様が用意された代金とは、ご自分のいのちであり、イエス様はご自分のいのちを惜しまず捧げて「十字架」という輝かしい塔を完成されたのです。そして、その愛の塔である十字架の上で、神様の慈しみと愛、また、それによる救いの計画を明らかに示されましたが、その計画とは、「罪の赦しによる救い」でしょう。言い換えれば、イエス様の十字架によって、罪の影に覆われていた人間は、神様と和解できるようになり、それこそが神様の救いの計画だったのです。
ここで二つ目の例え話を考えてみましょう。これは、自分の兵力の二倍もの兵力を持っている敵との戦いを控えている王の話です。その王は自分に十分な兵力がないと判断したら、その敵との和を求めるはずです。彼にとってその妥協は恥のように感じられるかもしれませんが、それによって自分も国民も無事にいのちを守ることができるはずです。この例え話は、敵との戦いを控えて悩んだある王の賢いふるまいについて語っていますが、それはイエス様の十字架上の死によって全うされた「神様の救いの計画」に向き合うわたしたちの正しい姿勢でもあります。実に、神様は人間よりはるかに強い方で、人間は神様に対抗できません。しかし、神様はその「塵にすぎない私たちの救いのために」、その強さを捨てられたかのように、十字架上のイエス様を通して温かな愛を示してくださいました。にもかかわらず、わたしたちはその温かい神様の和を求めるどころか、度々、世の中の様々な誘惑に自分を任せたり、神様から遠ざかったりしているのではないでしょうか。イエス様の十字架、その愛の塔から離れたら、わたしたちは世の中の奴隷として生きるしかありません。イエス様を通して、「地に住む人間の道はまっすぐにされ、人は神様の望まれることを学ぶようになり」、そして、世の中の奴隷でなく、神様の子供として生きて行けるようになったのです。ですから、これからもイエス様の十字架のもとに招かれた人として、日々の愛の十字架を背負ってイエス様に従うべきです。
ロビーにある二十六聖人の十字架上の姿を見てみましょう。その聖人たちはイエス様に倣ってそれぞれの愛の塔を建て、神様の愛と慈しみによる救いを証ししました。その信仰の子孫であるわたしたちも互いに愛し合い、赦し合い、助け合い、支え合うことによって、美しい愛の塔を建てられるでしょう。そういう恵みを求めながら、このミサの中でお祈り致しましょう。