週の主日の福音で、イエス様は三つの例え話を通して、神様の慈しみと愛の深さを示し、その神様に立ち返ることの大事さを教えてくださいました。それらの例え話は、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエス様に近寄ってきた」とき、それを見つめながら「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている。」と不平を言いだしたファリサイ派の人々や律法学者たちに向けられた話でした。イエス様はその例え話を用いて、自分たちだけが正しいと思いながら、律法に基づいて罪のない人を罪人だと定めたりしていた彼らを戒められました。特に「放蕩息子」の例え話を通して、イエス様はその放蕩息子の父親の姿からは神様の慈しみと愛を現し、また、その兄の姿からは、ファリサイ派の人々や律法学者たちの頑固な心を示されたわけです。ところが、その後、イエス様は一緒にいた弟子たちにも一つの例え話を話されましたが、それが今日の福音であり、今日の福音は先週の主日の福音の続編のようなものです。

今日の福音の例え話のタイトルは「不正な管理人」で、全体的な内容を見ても、この例え話の主人公である管理人はきわめて不正でこざかしい姿を見せてくれました。彼は自分の主人が自分の仕事を辞めさせようとしていることに気づき、主人に借りがある人たちを呼んで、彼らの借りを減らして書き直させました。いわば、彼は自分勝手に彼らの借金を減らしてやったのです。ところが、最初、主人は自分の財産を彼が無駄遣いしているのを聞いて、彼を辞めさせようとしましたが、今度は彼の抜け目のないやり方をほめました。それで、この不正な管理人は退職の危機を避けることができたでしょう。

イエス様はこの例え話の結論として、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金が無くなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」と言われました。また、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。」と言われ、更に、「他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。」と言われました。そして、最後に、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」とおっしゃいました。では、これらのお教えはいったいどういう意味でしょうか。

今日の福音の最初の箇所にも書いてありますが、先週の主日の例え話がファリサイ派の人々や律法学者たちに向けたものだとすれば、今日の例え話とお教えは弟子たちに聞かせたものです。それを考えたら、今日の福音は弟子たちを戒めるためではなく、これからの弟子たち、また、彼らによって信仰の道を歩むことになるすべての人たちへの温かい勧告であることが分かります。先ず、今日の例え話ですが、主人の意図を知った不正な管理人は自分の危機を打開するために、勝手に主人に借りのある人たちの債務を書き直させましたが、その抜け目のないやり方によって、彼はむしろ主人にほめられたのです。それは、その管理人が負債ある人たちの借りを不正に書き直させたことではなく、彼らの本来あった借りを書き直したからでしょう。つまり、彼は自分が作った偽りの文書を正したということです。それによって、彼は自分の仲間を作れたし、主人の信頼も得られたに違いありません。また、主人の立場から見ても、彼の率直な行動によって多くの借りが返され、結局自分の財産を無事に守ることができたでしょう。

今日の例え話のそういった背景を考えながら、イエス様がおっしゃったいくつかの結論を味わってみましょう。その結論とは、まず、不正にまみれた富で友達を作ること、ごく小さな事に忠実であること、また、神と富とに仕えることができないということです。その不正にまみれた富とは、清くない富という意味ではなく、世の中の普通の富であり、イエス様はそれを賢く使うことによって、永遠の住まいが備えられることを教えられたわけです。言い換えれば、わたしたちはその富を世の中の豊かな人生だけのために使うのではなく、永遠の幸せのためにもっと使うべきであるということです。また、その富とは、ただ物質的なものだけではなく、わたしたちが神様から頂いた様々な恵みも含まれています。その中でも一番貴いのは、言うまでもなく、イエス様によって授けられた神様の慈しみと愛の心でしょう。それを実践することは、世に属している人たちにとってはごく小さな事かもしれませんが、イエス様に従うわたしたちにとっては最も大事な事なのです。その慈しみと愛を実践することによって、わたしたちは世の富に仕えるのではなく、神様に仕える人となり、きっと神様は、そんなわたしたちに、もっと大きなものを与えてくださるでしょう。確かに、今日の例え話は戒めではなく、愛深いイエス様の温かいお勧めなのです。このミサを共に捧げながら、わたしたちがその勧告に答えて、互いに愛し合い、赦し合い、支え合い、助け合う共同体となり、イエス様によって現わされた神様の慈しみと愛を証しすることができるよう、心を合わせてお祈りいたしましょう