今日の福音で、イエス様は生まれつき目の見えない人の目を開けてくださり、更に彼をご自分への信仰の道に導いてくださいました。彼は物乞いをしながら過ごしていましたが、目が開けられた彼についての周りの人たちの話、つまり、「本当にその人だ」とか「似ているだけだ」などの話を鑑みたら、人々は彼にあまり関心も持っていなかったことが分かります。その憐れな人に出会ったイエス様は、彼の目に唾でこねた土を塗り、それから「シロアムの池に行って洗いなさい。」とおっしゃいました。イエス様のその行動は、まるでいたずらのようにさえ見えますが、彼は突然自分の目に変なものが塗られたことに驚きながら、「シロアムの池」までそのままの状態で行かねばなりませんでした。ところが、「シロアムの池」で目を洗った彼は、すべてが見えるようになったわけです。しかし、その時から、彼は思いもかけなかった様々な議論や迫害に巻き込まれることになりました。なぜなら、イエス様が彼の目を開けてくださったその日は、「働いてはいけない安息日」だったからです。

人々は彼をファリサイ派の人々のところへ連れて行きましたが、それは「自分たちの正しさ」を証明するためであったでしょう。つまり、彼らは「安息日の律法」を破ったイエス様の行動について、律法に対する自分たちの誠実さと正義感を証ししたかったのです。それは、当時のユダヤ人の社会的なルールに基づいたことで、律法に背いた人は会堂から追放され、場合によっては、その罪を隠ぺいした人も同じ罰に問われたからです。それは、当時のユダヤ人にとって、生活の基盤を全部失うことでしょう。そこでその盲人の親も、自分たちの息子に起きた奇跡について一言も弁護できなかったわけです。そしてついに、彼に対するファリサイ派の人々の執拗な追及が始まりましたが、その攻撃に立ち向かった彼の姿は何と勇敢だったでしょう。

ファリサイ派の人々が同じ質問を繰り返しているうちに、彼の信仰はますます強まりました。最初、彼は自分を見分けられなかった周りの人たちに、「わたしがそうなのです。」と言って、イエス様が自分になさったことを詳しく説明しましたが、ファリサイ派の人たちには、もっと自信をもって答え続けました。彼は「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。…あの方は預言者です。…あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。…あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。…あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」などという言葉で、自分に起きたことを証言しましたが、そう話しながら、少しずつイエス様への信仰に導かれ、その信仰の証しはどんどん立派になっていったでしょう。そして、会堂から追い払われた彼はついにイエス様に出会い、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と、自分の心を打ち明け、最後には「主よ、信じます。」と言いながらひざまずいたのです。それは、イエス様への信仰の告白であり、イエス様を救い主として認め、また、拝む行為だったでしょう。

イエス様は今日、生まれつき目の見えなかった人の目に唾でこねた土を塗りましたが、そのイエス様の姿からは、土で人を造られた神様の愛と慈しみにあふれた様子が見えるようです。イエス様は彼に「シロアムの池に行って洗いなさい。」とおっしゃいましたが、「シロアム」とは「遣わされた者」という意味だそうで、言い換えると、「遣わされた者に行って洗いなさい。」という意味です。その遣わされた者とはどなたでしょうか。それは言うまでもなく、イエス様ご自身でしょう。イエス様は、ただ、唾でこねた土で彼に新しい目を与えられただけでなく、ご自分が清めの泉となり、彼の目をもう一度洗ってくださったのです。彼は最後に「その方はどなたですか。」ではなく、「どんな人ですか。」と聞きました。それに対して、イエス様は「あなたと話しているのが、その人だ。」と言われました。イエス様に出会う時まで、誰も彼に親密に声をかけてくれなかったでしょう。その愛と慈しみに渇いていた彼を、イエス様は「慈しみ深い神様から遣わされた方」、つまり、「真のシロアム」として彼に声をかけ、その渇きを癒してくださいました。きっと、彼もそういう人として、自分がいただいた恵みを施す人となったに違いありません。そのイエス様を通して彼は、「生まれつき目の見えない人、すなわち、罪の呪いのしるしだった人から神様の救いを証しする人に、闇に覆われた人から光に招かれた人に、物乞いをする人から神様の愛と慈しみの福音を施す人」に変わったはずです。

わたしたちは先週の主日には「ヤコブの井戸」、今日は「シロアムの池」に関わる福音を聴きました。その「井戸や池」とは勿論イエス様のことで、二俣川教会も、今の世で働いておられる「イエス様の井戸と池」であると言えるでしょう。これからもわたしたち一人一人が、イエス様から遣わされた人、「慈しみと憐れみの井戸」「光の池」として、神様の豊かな恵みをもたらす人となれますよう、お祈りいたします。