今年も四旬節の最後の主日である「枝の主日、主の受難の主日」が巡ってきて、それにあわせて、教会の庭にあるソテツもすべての枝が切られ、さっぱりとした姿になっています。これからしばらくの間は刈り込まれた幹だけの姿ですが、少しずつ新しい枝が生え始めるでしょう。きっと、ソテツはその新しい枝をたくましく育てながら、来年の「枝の主日、主の受難の主日」を準備するはずです。今は、昨年から育ててきた大事な枝をわたしたちに渡し、わたしたちはその枝を手にして、このミサに与っているわけです。
今日は特別に二つの福音を聞きましたが、先に聞いたのは、「エルサレム入城の福音」です。それは、神様の小羊であるイエス様が最後の使命を果たすために、エルサレム城に入られた時のことを語っています。その時、群衆は自分の服、或いは、新しい枝を切ってそれを道に敷き、大声で「ダビデの子にホザナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホザナ。」と叫びながら、イエス様を喜んで迎えました。わたしたちも今日、その群衆の姿を思い起こしながら、ソテツの枝を手にしてこのミサを始めたのです。
次の福音は、先ほど聞いた「イエス・キリストの受難記」とも言われる福音で、イエス様の逮捕から十字架上の死までの次第について語っています。特にこの福音からは、イエス様の沈黙と、群衆や民の指導者たちの叫び声とを比較しながら、黙想することができると思います。その極めて異なる姿から、わたしたちに向かう神様の慈しみと憐れみの聖心(みこころ)、その神様に向かうわたしたちの不信仰と不誠実さが表れているような気がします。そればかりか、わたしたち一人ひとりに注がれる神様の愛と人間同士の憎しみと恨み、対立と分裂と戦いなどが見えます。でも、神様はイエス様の受難と復活を通して、改めてご自分の救いの計画を示そうとしておられます。その救いの御業がもたらすのは、言うまでもなく、新しい永遠の命です。そして、イエス様はそれをわたしたちに与えるため、この聖なる七日間の道を歩み始められたのです。
昨年のソテツの枝は無くなりましたが、その木の中では新しい命の枝が芽生えようとしています。同じく、十字架上のイエス様のうちに、新しい永遠の命があります。枝は必ず枯れてしまいますが、十字架から与えられる命は萎れることも、枯れることもありません。今日からの聖なる一週間、その新しい命を願い求めながら、イエス様の十字架に与ってまいりましょう。