「罪と死との戦いで勝利を収められた主イエス・キリストは、復活されました。アレルヤ、アレルヤ。」主のご復活おめでとうございます。復活の喜びと平和が信者の皆さんに豊かに注がれるよう、また、信者の皆さんがイエス様の新しい永遠の命に与れるよう、お祈り致します。そして、慈しみ深い神様がその命の道に、全ての人を導いてくださるよう、お願い致します。

愛と慈しみに満ちておられる神様は、罪深いわたしたちのために、ご自分の独り子を過越しの小羊とし、その小羊のいのちの代わりに、わたしたちを贖ってくださいました。神様はイエス様に十字架の木を担わせ、その十字架に御独り子と共に、わたしたちの罪と死を釘付けられたのです。その十字架の神秘によって、まさに、天地創造の時、エデンの園の木から命を失ったアダムとエバ、そして、その子孫であるわたしたち人間は、十字架の木から新しい命を頂けることとなりました。神様はそのアダムとエバがいのちの木に近づくことを許されませんでしたが、神様は自らわたしたちをイエス様のいのちの十字架の木に導いてくださったのです。その神様の慈しみと憐れみ、また、イエス様の愛は、どれほど温かく深いでしょうか。

しかし、わたしたち人間は、様々な罪の木が茂っている世の中で、それらの木の実を貪(むさぼ)りながらさまよっています。それは、傲慢と利己心、憎しみと葛藤、分裂と争い、欲心と欲望などの邪(よこしま)な木であり、その木に捕らえられて大事な命が失われているにもかかわらず、それに気づかないまま生きているのです。神様はこの憐れなわたしたちのために、十字架の木を示してくださいました。その十字架は、その昔、荒れ野で罪と悪に染まって神様に逆らったイスラエルの民を噛んで滅ぼした、あの蛇の像を付けたモーセの杖のようなものです。その時、蛇に噛まれてもその杖と像を見た人は救われたのです。それと同じく、神様はご自分の独り子を十字架に付け、その十字架を仰ぎ見て神様の慈しみと愛を求める人たちを救ってくださいます。その十字架によって罪と死の暗闇は無くなり、イエス様に従う人たちは光の中を歩めるようになったのです。

確かにイエス様の復活は、傲慢や利己心に対するへりくだりと隣人愛の勝利、憎しみと葛藤に対する赦しと和解の勝利、分裂と争いに対する一致と平和の勝利、欲心と欲望に対する分かち合いと清い心の勝利なのです。それは一言でまとめると、罪と死の暗闇に対する慈しみと命の光の勝利でしょう。神様はイエス様の十字架と復活を通して、わたしたちをその勝利の道に導いてくださったわけです。ですから、これからのわたしたちの道は、イエス様の道のほかありません。その道とは、愛の道、慈しみの道であり、その道を歩むことによって、わたしたちは復活されたイエス様の命に与ることができるのです。

その道を歩もうとして、今日、洗礼の泉に導かれている方々が、今、わたしたちと共にこのミサをささげています。この聖なる夜、この五名の方々は神様の慈しみと愛によって、また、わたしたち信仰共同体の信仰に支えられて、神様の子どもとなります。神様は今日、この方々にご自分のいのちを授け、いつもその命を守り、愛の実を結ぶことができるようにしてくださいます。わたしたちもこの方々と共に、各々の洗礼の約束を改めて固めることができればと思います。わたしたちの共同体が、これからももっと恵み豊かな共同体、愛深い共同体、いのちがみなぎる共同体となるよう、お祈りいたします。

ちょうど三年ぶりに、来週からは地区割りのミサから自由になります。この三年間、わたしたちは大きな悲しみと不安を抱(かか)えながら、いのちの大事さを実感してきました。でも、世の中には、まだ、互いにいのちを奪い合う犯罪や紛争、戦争が続いています。そればかりか、色々な病気や自然災害の中で苦しんでいる人たちも多いです。こんな状況の中で、わたしたちの自由なミサ聖祭の再開は、ただ、昔の形のミサへの回帰となってはいけないと思います。真心を持って互いに愛し合い、支え合いながら、他人の十字架を共に背負い合うしるしとして、共に捧げるミサとしなければなりません。また、このミサ聖祭を、教会のあらゆる活動の中心とし、このミサ聖祭なしでは何もできないことをはっきりと認識すべきです。このミサ聖祭こそが、イエス様の宴であり、ここでイエス様のいのちが与えられるからです。

改めて、復活されたイエス様の恵みと命が信者の皆さんの上に、豊かに注がれるよう、また、その新しい命によって、わたしたちの共同体が新たになれるよう、お祈りいたします。

 

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二俣川287-聖木曜日「230406」

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