教会の典礼には、所謂「典礼日の優先順位表」という決まり事があります。これは、一年の間、ミサ聖祭や教会の祈りの優先順位を定めたもので、一年間の記念日、祝日、祭日が記されています。勿論、記念日よりは祝日の方が、祝日よりは祭日の方が優先ですが、例えば、同じ順位だとしても、最も優先的な日があって、それに従って典礼を行わねばなりません。この規則は、国によって異なるものではないので、すべての国のミサ式次第に同じものが記されています。つまり、この優先順位表はどちらの国でも同様で、教会の普遍性を示しているのです。
その「典礼日の優先順位表」によると、最も大切なのは「過越しの三日間」で、次は「主の降誕、主の公現、主の昇天、聖霊降臨」、そして「待降節、四旬節、復活節の主日」、続いて「灰の水曜日」、それから「聖週間の月曜日から木曜日」です。そして、その次は「復活の八日間」、つまり、「復活祭の日からその次の主日までの八日間」です。これらの祭日は、一年間の典礼暦の中で最も重要な位置を占めていますが、よく見ると、イエス様の誕生と復活が二つの柱となっていることが分かります。実にイエス様の誕生と復活は、教会の一年間の典礼暦において二つの柱であり、それを最も盛大に記念するため、主の降誕祭と復活祭をそれぞれ八日間祝うのです。でも、「復活祭からの八日間」の方が典礼的なレベルが高いので、「復活祭からの八日間」は祭日、「降誕祭からの八日間」は祝日として祝われます。それは、イエス様の復活こそがわたしたちの信仰の根幹であり、源であることを表していて、実に、イエス様が復活されなかったら、わたしたちの信仰は何の意味もないものとなってしまうのです。
今日は復活節第二主日、つまり、典礼暦による大切な祭日である「復活祭からの八日間」の最後の日です。この八日間の福音は、イエス様が復活された後、マグダラのマリアとその仲間たち、また、ご自分の弟子たちに直接現れたことを語っています。それは、彼らがイエス様の復活の目撃証人となり、また、彼ら自身の証言を通して、すべての人を信仰の道に導く使命を果たすための出来事なのです。それについては今日の福音にも書いてありますが、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」という言葉通りです。言い換えれば、復活されたイエス様が弟子たちに現れたのは、まず始めに弟子たちを通して、そして、信仰へ導かれるすべての人が同じ信仰の道を歩み、イエス様の名によって、イエス様の命に彼らを与らせるためだったのです。
イエス様はかつて、最後の晩さんが終わるころ、天の父に向かって祈りをささげられましたが、その祈りの中で、弟子たちの言葉によってご自身を信じる人々のためにも祈られました。その祈りは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべてのひとを一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」という言葉で始まります。この祈りを通して、イエス様は信じる人々が御父とご自身との一致に与って一つとなることの大事さを示されたわけです。
今日の福音の中で、復活されたイエス様が弟子たちのところに来られた時、そこにいなかったトマスは、彼らがイエス様の復活の事実を証言したにもかかわらず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いながら、なかなか信じようとしませんでした。その八日の後、イエス様はトマスもいるところに再び来られ、八日前の彼の言葉を思い起こさせながら、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われました。そこで、トマスは「わたしの主、わたしの神よ。」と答えましたが、それに対してイエス様は、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とおっしゃったわけです。つまり、イエス様はたとえすべての人が、復活されたイエスご自身を直接に見なくても、信仰共同体が一つとなってイエスご自身を信じるようになるために、トマスをその「しるし」とされたのです。
今日の第一朗読は、「初期教会の生活」について語っていますが、そこにも、信じる人たちが「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」と書いてあります。また、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していた。」とも記されています。この箇所から、教会のありさまが示されますが、それは「宣教、交わり、典礼、奉仕」のことでしょう。それに加えて、今日の第二朗読で、使徒ペトロは「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」と言っています。わたしたちも同じく、イエス様を見たこともないのに愛し、見なくても信じており、唯一で普遍の教会と一つとなって、その信仰の喜びを味わっているのです。それができるのは、イエス様の復活があったからでしょう。これからもこの復活の信仰を大事にし、特にその復活の命、すなわち、イエス様の新しい命のしるしとして授けられているこのミサ聖祭を中心として、この信仰の道を歩んでまいりましょう。