今日、復活節第四主日は、1964年、聖パウロ6世教皇によって制定された「世界召命祈願の日」でもあります。この日、世界のすべての信者は、自分たちを信仰の道に招いてくださった神様に感謝しつつ、洗礼によって授けられた「救いの完成のための使命」を改めて認識し、それを果たすための恵みと力を神様に祈り求めます。その使命とは、イエス様がなさった三つの使命、すなわち「司祭職、預言者職、王職」で、わたしたちは洗礼によってその三つの職務に与る人となったわけです。この使命、或いは、職務を忠実に果たすため、わたしたちは祈りと教会の秘跡を身近にしながら、聖書のみ言葉、中でもイエス様の福音を深く悟らなければなりません。そして、イエス様が「仕えられるためでなく、仕えるために世に来られたように」、わたしたちもあらゆる形で神様と教会、また、隣人に仕える人となるべきです。特に本日、全世界の教会はその三つの使命により深く携わる人、つまり、その司祭の召命のために祈ります。それは、神様が世の中でさ迷っているご自分の羊の群れを憐れみ、その群れのための相応しい羊飼いに絶えず呼びかけ、自ら育み、遣わしてくださることを願う祈りです。そして、すべての司祭たちが、生涯忠実にその召命の道を歩むことができるように、神様の恵みを願い求めるのです。
今日の福音の中でイエス様は先ず、羊飼いについて語られましたが、それは、真の羊飼いと羊の群れとの絆を示す例え話です。その羊飼いは、門ではないところを通って入ろうとする盗人や強盗とは違って、いつも堂々と門を通って羊の囲いに入ります。そして、羊の名を呼んで自分の羊を連れ出し、それから自分が先頭に立ってその群れを導きます。その羊の群れは、羊飼いの声を知っているから安心して彼に従うはずです。ところが、この話はファリサイ派の人々への話だったと、福音は語っています。残念なことに、彼らはその話を聞きましたが、その意味が分からなかったそうです。こうして、ファリサイ派の人々は盗人であり、強盗であって、決して真の羊飼いではないことが明らかになったわけです。これをもっと真剣に考えたら、羊飼いだとしても、門を通らなければ、それは真の羊飼いではない、ということが分かります。
そこまで教えてくださったイエス様は、続いて「わたしは羊の門である。」とおっしゃいました。その門とは、「羊たちが出入りする門であり」、「その門を通って入る人は救われ、また、牧草を見つける。」と、イエス様は言われました。そして、羊を盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする盗人や強盗とは違って、イエス様はご自身が来られたのは、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と、はっきりおっしゃいました。盗人や強盗は自分のいのちのために羊の群れを盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりしますが、イエス様は羊たちの命を守るため、また、そのいのちをもっと豊かにするために来られた、ということでしょう。それこそが、まことの羊飼いであり、羊たちの門であるイエス様の使命だったのです。
その使命を果たすために、イエス様は十字架の道を歩き、その十字架上でご自分の尊い命をささげられました。そして、復活されたイエス様はご自分の羊たちを見捨てることなく、むしろ、一匹一匹丁寧に呼び集めて、羊の門であるご自分を通らせ、新しい命が満ちている牧草地に導いてくださるのです。その門であり、羊飼いであるイエス様の姿を歌っているような詩編が、まさに、今日の答唱詩編だったでしょう。また、使徒ペトロも自分の手紙で、イエス様は「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」、「その身にわたしたちの罪を担ってくださった」と語っています。その慈しみと憐れみ深い羊飼いであるイエス様の傷によって、わたしたちはいやされ、更に、そのイエス様が居られるところ、つまり、この祭壇の前に集まっているわけです。ここでわたしたちは改めて、イエス様の命のしるしであるご聖体をいただきますが、それは、わたしたちもイエス様のように生きる力を得るためのことでしょう。その力に支えられて、それぞれの生活の現場で、イエス様の愛を証ししながら、イエス様の三つの使命に与ること、それこそがわたしたちの召命を完成させることでもあると思います。
特に、今日は司祭召命のために祈る日でありますが、すべての司祭が羊たちの門であるイエス様を通って羊の群れである神様の民に出会い、また、謙遜に寄り添うことができるよう、信者の皆さんのお祈りをお願いいたします。わたしたち司祭が、世の中の門ではなく、イエス様を通ってその群れと共に、イエス様の命に与ることができればと思います。教会には扉はありますが、実に教会の真の門はイエス様ご自身であり、その門はひとつなのです。その門は勿論、イエス様がおられる所であれば、どこにでもあるはずでしょう。貧しい人、苦しんでいる人、虐げられている人、悲しんでいる人たちのところにイエス様はおられ、そこでご自分の門を開き、わたしたちを待っておられます。それは、わたしたちに愛の生き方を学ばせるためではないでしょうか。これからも、信者の皆さんが、イエス様を通って、イエス様の内に、イエス様のみ言葉とご聖体によって、また、信仰においても、愛においても、たくましく育まれますようお祈りいたします。