人間の罪とはどういうものでしょう。教会は伝統的に、罪は人間の傲慢、或いは、人を見下す驕慢から始まると教えています。それは、旧約聖書の創世記が示していることで、確かに、人間の罪は、自分が神様や他の人たちより優れたものだと考え、そのように振る舞うことから始まります。その結果、人間は、神様が用意してくださったエデンという「美しい楽園」から追放されました。その「エデン」とは、単なる場所を指すのではなく、関係性、また、絆を意味しています。そして、それを失ったというのは、その関係性、絆が崩れてしまったことを表わしています。それでは、その関係性、或いは、絆とは、誰とのことでしょうか。それはまさに、神様、隣人、自然万物、そして、自分自身との関係性、絆なのです。

今日の福音でイエス様は、教会の人たちが、罪を犯した人にどういう風に対応するかについて教えられました。イエス様は先ず、その人と二人だけのところに行って、話し合うようにとおっしゃいました。その話し合いが失敗したら、今度は、他の一人か二人を連れて行って話し合い、それでも聞いてくれないと、教会に知らせるようにと教えられました。そして、その教会の話も聞かないと、異邦人や徴税人のように見なすようにと言われました。

でも、よく考えてみたら、果たして教会にまで自分の罪や過ちが公になるのを望む人がいるでしょうか。絶対にいないと思います。というのは、最初の段階、つまり、一対一で会って話し合い、それで解決する場合が多いということでしょう。確かに、その通りだと思います。しかし、そうではない場合もあります。そうではない場合とは、イエス様がおっしゃった次の段階、つまり、他の人と共に話し合うことや、教会に知らせることでしょう。しかし、実際にはどうでしょうか。多分、他の人を連れて行くか、或いは、教会にまで知らせるよりは、自分に過ったり罪を犯したりした人と接しないようにし、それで終える場合もあるでしょう。そこで、教会は平和を保つようになるかもしれませんが、それは「曖昧な平和」となるに違いありません。勿論、望ましいのは、先ず、罪を犯した人が悔い改めて、相手に和解を求めること、または、最初の段階で解決することですが、なかなか、次の段階に移ることなく、自分一人で憤りと憎しみ、恨みなどを抱きながら、耐え忍ぶ場合が多いでしょう。その結果、まるで、美しいエデンのようだった教会は、乾き果てた荒れ野のようになり、神様への信仰は弱くなってしまいます。そして、心から交わることもできず、自分自身への恨みや憎しみまで生じるのです。

それでは今日、イエス様はわたしたちの現実と全く違うことを教えられたのでしょうか。そうではありません。むしろ、そのような「曖昧な平和」が起らないように、互いに心を開き、他人の話に耳を傾けることの大切さと、また、自分の過ちや罪、足りなさを素直に認め、まことの平和が保たれるように努めることを、わたしたちに教えてくださったのです。そうなると、イエス様がおっしゃる二人、三人の証言とか、教会への報告などは、もう必要ないでしょう。

今日、イエス様は、最後には教会に知らせ、教会の言うことも聞かないと、異邦人や徴税人のように見なしなさいと言う風に言われました。しかし、それは、教会に裁きの権利を授けるためではありません。実に、教会は人を裁く組織ではなく、みんなが交わる集いであり、その集いの中心には、今日、イエス様がおっしゃった通りイエス様ご自身がおられます。そのイエス様はかつて、「わたしが来たのは世を裁くためではなく、救うためである。」と言われました。その救いとは、罪のゆるしによる救いで、イエス様はその救いの御業を全うするために、十字架上の死さえ受け止められたでしょう。ですから、教会の人たちは、互いに耳を傾け合い、理解し合い、受け入れ合い、赦し合い、愛し合うことを最も大事にしなければなりません。それこそが真の交わりであり、そういうことによって、わたしたちの中にイエス様がおられることが証しされるでしょう。イエス様はわたしたちのその真の交わりの中にしかおられません。

さて、わたしたちはミサの中で、「慈しみの賛歌」と「平和の賛歌」を唱えたり、歌ったりします。それぞれ慈しみの賛歌は言葉の典礼の前、平和の賛歌は交わりの義の前に唱え、または、歌います。どういうわけでそうなっているのかは別にして、わたしはこれを、「御言葉との交わり」と「御聖体との交わり」を準備させるためだと理解したいと思います。事実、わたしたちはみんなエデンという楽園を失った旅人ですが、神様の慈しみと愛によって、教会という新しいエデンに招かれています。その教会の中で、神様との和解と交わり、信仰のある兄弟姉妹との和解と交わり、自分自身との和解と交わりを味わっているわけです。それは、罪人を招く為に来られ、十字架上で命をささげられたイエス様のお陰様でしょう。それを示すしるしとしての御言葉とご聖体。それに与るには、当然、慈しみと愛、柔和と謙遜、悔い改めと赦しの心が必要です。その心を持って愛し合うならば、わたしたちの中にイエス様はおられ、わたしたちの集いを豊かに祝福してくださるはずです。これからも愛に生きてまいりましょう。