信者か信者ではないかにかかわらず、カトリック教会については、次のような認識を持っているようです。先ず、カトリック教会の魅力については、例えば、「典礼に深みがある。伝統的な気がする。社会的な問題に目覚めている。献金を強要しない。」などと答える場合が多いです。一方、信者となることをためらう理由について聞くと、「色々複雑だから。親切すぎて、信徒から面倒を掛けられたくないから。敬虔な人たちだけの集いのように見えるから。」などと答える人が多いです。そしてその中には、「守るべき様々な規則やルールがあるから。」という答えもありました。確かに、カトリック教会には、そういった規則やルールがあり、教会の外の人たちにとって、「それらをハードルと感じる」ことを認めざるを得ないと思います。

今日の福音でイエス様はある律法の専門家から、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」という質問を受けられました。それに対してイエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と言われ、さらに、「隣人を自分のように愛しなさい。」ともおっしゃいました。このイエス様の答えは、それぞれ申命記とレビ記に書いてある掟ですが、イエス様はそれを組み合わせて、一つの掟とし、それこそが律法全体と預言者の基であると教えられたわけです。イエス様の答えを一言でまとめたら、「神様と人間を愛しなさい。」という風に理解できると思います。そして、これこそが、すべての掟と教えの根幹であることも分かります。実に、教会には、ただ「十戒」と言われる掟だけでなく、「普遍教会法」と言われる、全世界のすべての信者が守らなければならない「法律」もあります。しかし、それらの掟や法律も、「神様と人間への愛」に基づいていて、その愛の証しでもあるわけです。もし、そういった掟や法律が教会の厳しさを表すものとなったなら、もはや、教会は「神様と人間への愛」を失った憐れな存在となってしまうでしょう。

それでは、どうしたら神様と人間をちゃんと愛することができるでしょうか。それについては、今日の第二朗読があるヒントを与えているような気がします。その箇所をもう一度聴いてみましょう。それは、「あなたがたは酷い苦しみの中で、聖霊による喜びを持って御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣うものとなり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」という箇所と、「わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。」という箇所です。

この二つの箇所から、先ず、神様への愛について考えてみましょう。神様を愛するためには、先ず、聖霊による喜びを持って御言葉を受け入れることが必要です。自分の考えや知識に基づいて御言葉を理解することでなく、あくまでも、聖霊に導かれて御言葉を味わい、その霊的な知恵を通して主に倣わなければなりません。その上で、偶像から離れて神様に立ち帰り、生けるまことの神様に仕えることができるのです。この偶像という言葉は、単にある形を持っている宗教的な像を表す言葉ではありません。実に、わたしたちの周りには、いいえ、内面にも、あらゆる形の偶像があります。それは、よく言われる「金や名誉、人生の成功、豊かな知識」などでもありますが、場合によっては「自分自身」もその偶像の一つとなりがちです。まさに、自分を満足させるために働くとき、自分自らが偶像となるでしょう。それらの偶像から離れることとは、それを捨てることを意味し、それから神様に立ち返ることも、神様に仕えることもできるのです。イエス様も自分を捨て、自らを低くし、神様に仕えて、十字架の上で、ご自分のいのちを神様への愛のいけにえとして捧げられたでしょう。そのイエス様に倣うことが、神様を愛することに違いないと思います。

そして、人間を愛することですが、いったいどうすればよいでしょうか。わたしは、それも「主に倣おう」という心からできると思います。つまり、イエス様がどのように人を愛してくださったかを考え、それと同じように愛することでしょう。他人の声に耳を傾け、心を配ることや、悲しみも涙も苦しみも共にすること。神様が弱い人たちと共におられると信じ、その神様に仕えるために彼らを助けることもイエス様に倣うことです。様々な基準で、人々を分け隔てることなく、みんなが神様の子供であることを認め、互いに受け入れ合うことも神様に倣う優れた方法です。悔い改める人を迎え入れられたイエス様のように、仲の良い人だけでなく、すべての人と喜んで交わることも大事なことでしょう。

教会の掟は神様と人間を愛するためのものです。その愛を失わず、わたしたちの間で、神様と隣人への愛が満ち溢れ、その愛がわたしたちから証しされるよう、お祈りいたします。