今日は、「聖家族」と言われるナザレのイエス様の家族を記念する祝日です。神様はご自分の独り子を救い主として遣わされる際、その大事な御独り子がマリアとヨセフの貧しい家庭で生まれることを望まれました。その貧しさとは、経済的な貧しさだけではありません。それは、すべてを神様に任せる霊的な貧しさ、魂の貧しさだったのです。実に、マリアもヨセフも、イエス様が聖霊によって宿られたことを素直に信じ、それからの自分たちのことをすべて神様に任せたのでしょう。神様は、ご自分の大切な独り子の両親としての務めを、誰よりもその貧しい魂を持っていた二人に任せてくださったわけです。

これは何と神秘的なことでしょうか。神様に自分たちのすべてを任せる人、そして、そのような人にご自分の大切な独り子を任せる神様との交わりとは。その交わりの神秘を通して、貧しい故に二人は神様に豊かに恵まれ、神様の独り子の親としての務めを果たすことができたでしょう。一方、神様にとっては、その二人の務めを通して神様の救いの御業は始まり、また、完成出来たとも言えるのです。今日、わたしたちは、神様と人間とが交わり、仕え合い、任せ合う神秘を黙想しつつ、わたしたちも互いに交わり、仕え合い、任せ合う神秘に与ることができるよう、心を込めて祈りましょう。そして、その神秘に生きることを、改めて決心してはいかがでしょうか。

今日の福音で、マリアとヨセフは、神様にイエス様を捧げるために神殿に参りました。その時、二人は神殿の中でシメオンという信心深い人と出会い、彼から、「イエス様が神様の救い主であり、異邦人のための啓示の光、イスラエルの誉れとなる」という預言を聞いたのです。それだけでも驚くべきお知らせだったでしょう。でも、シメオンは、イエス様がそういう栄光を受けるまで、どれほど苦しめられるのかを語り、マリアがその苦しみを共にすることについて告げました。幼きイエス様についての話は、アンナという女預言者の口からも告げられました。彼女も、イエス様こそ、待ちに待っていた救い主であることを語ったのです。この二人が語ったのは、神様の救いが近づいたという、「喜びの知らせ」、即ち、福音だったでしょう。

今日の出来事を通して神様は、モーセの律法がイエス様の新しい掟にかわり、旧約の神殿が新約の教会にかわった、ということを示されたのではないでしょうか。イエス様の「互いに愛し合いなさい。」という掟が守られ、イエス様の教えである福音が語られる所、しかも、イエス様の御体と御血が捧げられる所、それこそが、教会でしょう。果たして、日常の小さなことの中でもその愛の掟が守られず、イエス様のみ言葉が語られない所、霊的な貧しさを持ってイエス様の御体と御血が捧げられない所を、私たちは教会と呼べるでしょうか?

今日は聖家族の祝日です。教会は、ある意味、「神様の家庭」と言えるでしょう。そして、そこにいる人たちは皆、ナザレの聖家族の一人として招かれている人たちなのです。ナザレの聖家族こそが、神様と人間とが交わり、仕え合い、任せ合う神秘を示し、その神秘に生きた家族と言えるでしょう。わたしたちもその家族の一人として、そうあるべきです。互いに交わり、仕え合い、任せ合い、愛し合うこと、また、赦し合い、支え合い、受け入れ合うことを大事にしましょう。そして、シメオンとアンナのように、神様のことを話し合い、イエス様の福音を語り合い、イエス様の御体と御血を分かち合いましょう。私たち自身はどうでしょうか?無意識であっても、世の中的な価値や、考え方、やり方を優先し、それが語られる所、世の中的に働く所は教会ではありません。わたしたちがナザレの家族として、その貴い品位を守りながら生きていけますように。アーメン。