今日は、キリストの御体と御血の神秘を記念する「キリストの聖体」の祭日です。神様はご自分の御独り子をわたしたちのための過越の小羊とされました。それは、わたしたちを救うためのことで、その救いとはあらゆる罪と過ちを清め、神様の永遠の命に与ることです。そこで、イエス様は、十字架上でご自分の御血を流してわたしたちの罪を洗い、また、ご自分の御体を永遠の命の糧として与えてくださったのです。今日、わたしたちはその神様に感謝と賛美をささげながら、キリストのように生きていくための恵みを、神様に願い求めましょう。
今日の福音は、最後の晩さんのことを語っています。過越祭の初日、弟子たちは過越の食卓の準備についてイエス様に尋ねました。そこでイエス様は、まるで、ご自身がすべてを用意しておかれたかのように色々指示されました。そのお話の中で、まず、「水がめを運ぶ人」が登場します。多分、ある家の僕だと思われます。でも、その「水がめを運ぶ人」は、自分が運ぶ水がどう使われるかは分からなかったはずです。彼は、自分が運ぶ水が普段の生活に使われる水だと思ったに違いありません。しかし、それだけではありませんでした。主キリストは、その水でご自分の弟子たちの足を洗ってくださったでしょう。
一方、その水がめの男の主人はどうでしょうか。彼は自分の僕に付いてきた二人の弟子から、イエス様の話を聞いたはずです。それは、「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています。」という話だったでしょう。そこで、その家の主人は弟子たちに「席が整って用意ができた二階の広間を見せてくれました。」弟子たちは、すべてがイエス様の言われた通りだったので、そこに過越の食事を準備したわけです。まさに、イエス様がそこでなさったことは、パンとぶどう酒をもって行われた最初のミサ聖祭でした。
何も知らずに水を運んだ男。彼は普段通りに自分の仕事をしただけです。しかし、その水は罪と死の汚れを清めるための水となりました。その家の主人は、ただ、自分の家の広間を整えただけで、そこで何が起きるかは知りませんでした。しかし、そこはもう自分の部屋ではなく、イエス様の部屋となったでしょう。その部屋で最後の晩さんであり、最初のミサである新しい過越祭が行われ、パンはイエス様の御体となり、ぶどう酒はイエス様の御血となったのです。
ここで、弟子たちのことを考えてみましょう。イエス様から先に遣わされた二人の弟子たちも、イエス様と一緒にその家に向かった十人の弟子たちも、何も知りませんでした。ただ、毎年行ってきた過越の食事をすると思ったに違いありません。しかし、イエス様と一緒にしたその過越の食事は、見たことも聞いたこともない過越しの食事だったでしょう。それは、その昔、イスラエルが初めて行った過越しの食事や、先祖たちが行ってきた過越しの食事とは全然違う、「新しい永遠の過越しの食事」だったのです。イエス様は、その新しい過越しの小羊として、今日も、わたしたちをその食事の席に招いてくださるのです。
水がめの男も、彼の家の主人も、十二人の弟子たちも、彼らはみな何も知りませんでした。でも、彼らの中でイエス様は働いておられたでしょう。そのイエス様のみ旨とはからいに素直に従うこと。イエス様の食卓に与るためには、そういった姿勢が必要ではないでしょうか。
(今日)、8人の子供たちの初聖体が行われます。彼らに「なぜ、御聖体をいただくのか」について説明をしました。「お父さんとお母さんと一緒に食事するのは、わたしたちもお父さんやお母さんのように、立派な人となるためです。同じく、イエス様の御体をいただくのは、イエス様のようになるためです。」と。主の食卓は素直で純粋な子供のような人たちのもので、キリストの御体と御血は、その人たちがイエス様のようになれるよう育んでくれます。今日、この子供たちと共にするこの食卓が、わたしたちを新たにしてくれますように。アーメン。