今日の福音の中で、ある一人の少年のパンと魚は、五千人の糧となりました。それは、イエス様を通した分かち合いの結果でした。しかし、それは単なる食べ物の分かち合いでなく、いのちの分かち合いでした。そのいのちとは、自分を自らささげる惜しみない愛です。今日、イエス様は、一人の子供を通してその愛を示してくださいました。そして、その愛こそが、神様の一番素敵な賜物、つまり、神様の命に与るために必要であることも教えてくださったのです。

その恵みは、イエス様の十字架と復活によってあらわされました。よく考えてみたら、神様はご自分の独り子の死を望まれたわけです。その独り子の死は、すなわち、神様ご自分の死でもあるでしょう。それは、絶望の極致であると言えます。しかし、その独り子の復活は、新しいいのちへの希望となりました。神様は、ご自分の独り子であるイエス様の死と復活を通して、そのいのちをわたしたちに示し、また、与えてくださったのです。ところが、人間は、愛にはとても大きな犠牲が伴われると思うでしょう。でも、いかに大きな愛を行うとしても、イエス様の聖なる犠牲の前には、塵にすぎないはずです。しかし、たとえ塵のような小さい愛でも、私たちがそれをささげたら、イエス様は喜んで受け入れてくださいます。そして、その小さな愛で、五千人を命の糧で満腹させ、そのいのちの喜びで満たしてくださるのです。

子供は成長するものです。今日、イエス様に自分の食べ物を差し上げた子供は、きっと、大きなことを悟ったに違いありません。その子は、何も知らずにアンデレに連れられてきました。そして、自分の大事なパンと魚をイエス様に渡しました。もしかしたら、泣きたかったかもしれません。しかし、イエス様の聖なる両手に自分の食べ物が載せられ、更に、それが五千人の命の糧となったでしょう。いかに多くの物、目に見える物と見えない物を持っていても、自分のためにはいつも足りないように感じてしまうのが、わたしたち人間です。でも、どんなにつまらない物だとしても、みんなのためにイエス様に差し上げると、イエス様はそれをもっと豊かにしてくださいます。今日、この一人の少年はなんと幸せだったでしょうか。

少年は、すばらしい光景を目にしたはずです。五つのパンと二匹の魚を手にして神様に感謝と賛美をささげ、それを周りの人たちに分け与えてくださるイエス様の姿。きっと、多くの人々がイエス様を見つめながら、イエス様のように分け合ったでしょう。病める人のパンを丈夫な人が分けてもらい、罪のない人が罪人のパンを分け合ってもらいます。僕が主人と、異邦人がユダヤ人と、同じパンと魚を分かち合います。貧しい人のみすぼらしい食べ物を豊かな人が喜んで食べ、大人も子供も共に笑います。イザヤが預言したとおり、獅子が小羊と共に遊び、乳飲み子が蛇の穴にためらわずに手を入れます。平和の宴です。イエス様は、神様のみ旨を調べ、それを行った人たちこそが、ご自分の兄弟、姉妹、母であると言われました。あの少年は、その人たちを目にしたわけです。教会の兄弟姉妹だから同じパンを食べるのではなく、まことの兄弟姉妹となるために同じ一つのパン、つまり、イエス様の御体をいただくのです。

イエス様は、かつて、天の国は子どものような人のものであるという風に教えられました。イエス様はわたしたちが、常に成長する子どものようになることを望んでおられます。わたしたちをイエス様にささげ、また、任せましょう。イエス様は喜んでわたしたちを受け入れくださいます。そして、みんなをご自分の一つのパン、すなわち、御聖体で養い、一つの兄弟姉妹となるようにしてくださいます。そのイエス様の命の食卓に、素直な子どものように進んでまいりましょう。