今日もイエス様はいのちのパンについて教えてくださいました。このお話は、イエス様が五つのパンと二匹の魚で、五千人を満腹させてから語られたものです。先週は、その出来事をしるしとして受け止め、そのしるしの意味を味わうことと、それを行うことの大事さについて話しました。それこそが、聖体の秘跡に生きるわたしたちの真の姿であると思います。

今日もイエス様は、ご自身が「命のパンである」ということを力強く語られました。群衆は、ご自身が天から降って来たというイエス様のお話につまずいたでしょう。彼らは、自分たちが知っているイエス様、つまり、その人間性に対して、心の足が止まってしまったのです。そこで、イエス様は、「父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとへ来ることはできない。」と言われ、更に、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」とおっしゃったわけです。ここで、まず考えてみたいことがあります。

このイエス様のお話によると、天の御父はわたしたちに何かを教えておられるようです。それは何でしょうか。それはイエス様への道です。御父は常にわたしたちをイエス様への道に引き寄せようとしておられるわけです。その道を通ってイエス様に導かれる人には、イエス様はいつもご自分の命のパンを与えてくださるのです。

でも、その道は思ったより危うい道かも知れません。それは、かつてイスラエルの民が歩いた荒れ野の道のような気がします。或いは、イサクをささげるために、彼と共に歩いていたアブラハムの道かも知れません。もしかして、父の財産を前もって分けもらって、遠く地方に向かっていた放蕩息子の道でもあり得るでしょう。姦淫の現場から捕まって、イエス様のもとに引っ張られてきたあの女性の道でもあり得ます。怖く、辛く、恐ろしい道に違いありません。

しかし、その道にはいつもイエス様がおられます。それを信じ、イエス様だけにより頼む人こそが、その命のパンを頂けるのです。そのいのちのパンに憧れている人たちの道は、もはや、怖く、辛く、恐ろしい道ではありません。それは、荒れ野でさ迷いながらも希望を見いだしていたカレブとヨシュアのような人たちの道。命を返していただいたイサクと共に、家に戻っていくアブラハムのような人たちの道。父親の豊かな食卓を恋しく思い、悔い改めながら足を運んだ放蕩息子のような人たちの道。イエス様に赦されたあの可哀そうな女性のような人たちの新しい道なのです。その人たちは、キリストの命のパン、すなわち、その御体をわたしたちより先にいただき、また、味わえた人たちでしょう。

それと同じ道、同じ食卓に、御父はわたしたちを引き寄せてくださいました。その食卓で、わたしたちはキリストの御体、すなわち、キリストの肉をいただくのです。それは、キリストの命に与ることでしょう。キリストの命に与っている以上、自分の命、そのみすぼらしい力に生きることではなく、キリストの限りない愛に生きるべきです。それによって、わたしたちはキリストを頭とする、キリスト神秘体の真の一員となるわけです。古いマンナは消え失せ、新しいマンナが与えられています。昔のマンナは朝の露と一緒に現れました。どんなに輝かしかったことでしょう。でも、新しいマンナ、つまり、キリストの命のパンは最も輝かしい光を放ちながら、わたしたちの心に来られます。そのキリストの命のパンをいただくために心を整え、みんなで共に、その食卓へ喜んでまいりましょう。