聖体拝領の後、司祭はパテナを拭き、カリスをすすぎながら次の祈りを唱えます。「主よ、口でいただいたものを清い心をもって受け入れることができますように。このたまものによって、永遠のいのちに導かれますように。」と。ラテン語原文には、「remedium sempiternum」と書かれており、韓国語版は「永遠のいのちの薬」と翻訳しています。日本語版はこの言葉を、「永遠のいのちに導かれますように。」と翻訳したわけです。ちなみに、英語版は「健康といやしをもたらしてくれますように。」という風になっています。いずれも、イエス様の御聖体が霊的な健康といやしをもたらしてくれる薬効があることを表わしている気がします。

今日の福音はエルサレムから来た数人の律法学者たちの訴えから始まります。彼らは、イエス様の弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見たでしょう。彼らはすぐイエス様に、弟子たちが「なぜ昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と訴えたわけです。そこで、イエス様はイザヤの預言を用いて、次のように彼らの偽善を戒められました。「『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」と。

それから、イエス様は人間をまことに汚すものについて教えられました。それは、外から人間の中に入るものではなく、むしろ人間の心から出るものだったでしょう。でも、少し不思議な感じがします。最初、律法学者たちは汚れた手で食事をする弟子たちのことを訴えたでしょう。学者たちは、弟子たちが手にした食べ物ついてではなく、彼らの汚れた手について訴えたのです。それなのに、なぜイエス様は口から入る食べ物について言及されながら、人間を汚す本のものに対して明言されたのでしょうか。それは、汚い体によって食べ物が汚れたり、清くないものに触れられて、体の清さを失ったりするわけがないことを示すためだったのです。イエス様はむしろ、心の中から出る悪い思いや悪によって、体も魂も汚れてしまうことを教えられたわけです。その汚れは、どうしたら清くなれるでしょうか。

イエス様はかつて、次のようにおっしゃいました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招く為である。」と。この世の医者は先ず、病を治すために働きますが、イエス様はそれだけではありません。イエス様は、ご自分の御体をこの上ない薬とされ、あらゆる罪を赦し、更に、清くし、新たにしてくださるために来られました。それを信じ、その恵みを切に願う人に、イエス様の御体は特効薬となるでしょう。でも、いかに聖なるご聖体をいただいても、そのご聖体によって心が清く新たになるのを願わないと、それは無駄な食事となるわけです。ご聖体はそれによって清くなりたい人、新たになりたい人に、それに見合う力を発揮するものなのです。そういう意味から見たら、確かに、イエス様の御聖体は、永遠のいのちの薬であるに違いない気がします。

エルサレムから来た人たちは、イエス様と弟子たちが食事をしている所に来たでしょう。彼らもその食卓に喜びのうちに与れたかもしれません。しかし、心が変わらなかった彼らは、結局与れませんでした。今日も真の医者であるイエス様は、ご自分の御体を永遠のいのちの薬として与えるために来られます。その薬を切に願いながら喜びのうちにその食卓に参りましょう