今日の福音は、たくさんの財産を持っていたある人の質問から始まります。彼は、イエス様が旅に出ようとされた時、急いでイエス様のところに走ってきました。そして、ひざまずき、「善い先生、永遠のいのちを受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねました。それほど、彼は永遠のいのちを受け継ぎたかったでしょうか。でも、彼の切なるお願いについて、イエス様は意外と冷静におっしゃいました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。」と。

多分、彼は、イエス様が普通の律法学者たちとは違う方であると思っていたでしょう。そして、自分にとって大事なこと、つまり、永遠の命について、親切に教えてくださることを望んでいたはずです。そこで、自分なりに丁寧な言葉でイエス様に尋ねたのです。しかし、それに対するイエス様の「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。」という言葉は、まるで次のように聞こえます。「神様ではなく、自分勝手な基準で、『善い』とは言うな」と。 果たして、彼の基準は何だったでしょうか。

恐らく、彼はイエス様が、自分が納得できるように教えてくださると思ったでしょう。自分が理解できること、しかも、自分の気に入る内容で教えてくださると思っていたはずです。そこに、彼の「善さ」の基準があったでしょう。イエス様ならば、決して自分の期待に背かないと、彼は思っていたのです。しかし、イエス様において「すべての善さ」の基準は、御父である神様だけだったわけです。イエス様は、先ずそれをはっきりとしておかれたでしょう。

それから、イエス様は彼が昔からの掟をちゃんと知っているかどうかを尋ねられました。それについて彼は、子供の時からしっかりと守ってきたと答えたわけです。でも、イエス様は彼に一つ欠けているものがあると言われました。それは、彼のたくさんの財産を売り払い、貧しい人々に施すこと、それから、イエス様に従うことでした。それを聞いた彼は、気を落とし、悲しみながら立ち去ったでしょう。自分の財産を諦めることができなかったからです。

考えてみたら、彼はとてもまじめな人だったかもしれません。しかし、彼の素晴らしい生活の裏には財産の余裕とその力があったけれど、神様が一番ではなかったでしょう。イエス様は、彼がすべてを失っても、神様が真の善い方であることと、その神様にすべてを任せることを学ぶことを望まれたのです。「自分に何の害ももたらさず、自分の気に入る道だけを示してくださる神様は善い神様、そうでなかったら善くない神様。」そういった、自分中心的な信仰は、永遠の命を受け継ぐにはまったく役に立たないでしょう。むしろ、自分のあらゆる形の財産、目に見えるもの見えないものを全て失ったとしても、善い神様に頼ることが大事だと思います。

今日、多くの財産を持っていた人はイエス様に、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねました。彼は「永遠の命を得るためには」でなく、「受け継ぐためには」と言いました。その永遠の命を受け継ぐためには、それを受け継がせようとされる方、つまり、イエス様に従うしかありません。そこで、イエス様は「わたしに従いなさい」とおっしゃったわけです。このみ言葉を忘れず、これからもみんなでイエス様に従ってまいりましょう