今日の福音は、まるで、映画のワンシーンのように始まります。ちょっと想像してみましょうか。真っ暗な画面の中から、小さなそよ風のような音が聞こえてきます。画面が少しずつ明るくなります。そよ風のような音は続きます。遠く高い所から、カメラがある場所にズームインしていきます。そよ風の囁くような音がする中で、先ずは、地中海辺りが見えてきます。それから、ローマ帝国の上空、そして、皇帝の宮殿。カメラは、多くの家臣や家来たちが集まって、皇帝に向かって礼を表する現場の真上から、その様子を見せます。その華々しい光景。何一つ欠けたもののない豊かな場所。その時代のあらゆる形の力が満ち溢れ、それを表す神々の像が立ち並ぶ場所です。でも、誰ひとりとして小さなそよ風のような音に耳を傾けません。

その音の聞こえる中で、カメラは別の場所を映し出します。ユダヤの地です。先ず、総督の邸宅。皇帝の宮殿とは比べものにならないほど小さいですが、それなりの品格と威厳があります。皇帝が授かった権威を表すような赤いマントをまとったピラトが、そこにいます。そして、彼に従う多くの優秀な兵士たちの姿も見えます。ピラトは植民地を管理監督する総督です。ユダヤはピラトの領土のような地域で、ユダヤ人は皆、嫌がりながらも、ピラトに従わねばなりません。小さなそよ風のような音は続きますが、誰もそれを気にかけることはありません。

画面が変わり、苦しんでいるユダヤ人たちが見えます。続いて、そのユダヤ人の中で、ピラトとのかかわりを大事にする人たちが見えます。何人かの領主たちと大祭司たちです。ローマ皇帝から権力を授かっていたピラトにとって、彼らは自分を助けてくれる大事な人たちです。政治的に、宗教的に、安定した社会を築くために役立つ人たちです。皇帝も総督も、植民地の安全と安定のために、彼らの立場と役目を認めてくれます。もはや彼らは、神様と多くの同胞の奉仕者ではなく、ローマの僕として神様の民を支配する者となっているわけです。小さなそよ風のような音は続きますが、それに耳を傾ける人は、誰一人いません。

その小さな風の流れに沿って、カメラは移ります。そこは荒れ野です。ラクダの皮で作った衣をまとった人が見えます。ヨハネです。彼の父親はザカリア、祭司です。ヨハネも父親のように権威ある祭司になるはずでしょう。それなのに、彼は今、荒れ野にいます。これからの人生を保障してくれるすべてを捨てたでしょう。そのヨハネのところにも小さなそよ風の音が訪れます。その瞬間、ヨハネはその音を捉えました。神様の呼びかけです。その御言葉は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と彼に囁いています。その御言葉通り、彼は主の訪れを宣べ伝え、その準備をさせ始めます。それは、主の訪れの道を整えることです。多くの人の心の谷はすべて埋められ、山と丘のような小高いところはみな低くなります。それぞれが歩んできた曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになります。ヨハネは人々に悔い改めの洗礼を授けます。それは、罪のゆるしの与え主、主・イエス様の道を整えさせました。

画面は猛スピードで移り変わり、そして、ある風景がゆっくりと映し出されます。二俣川教会です。わたしたちの教会が上空から見えます。そよ風の音も一緒です。聞こえますか。「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。」自分だけための道ではなく、主の道です。主が各々の心に来られるための道です。その心の道を喜びのうちに整え、主に身も心も向けて、待降節を過ごしてまいりましょう。