荒れ野からガリラヤへの道は長く荒々しい道です。でも今、イエス様の足どりはとても軽く、まるで、足に翼が付いたかのようです。今、イエス様は荒れ野からガリラヤへ向かっておられます。ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた後、聖霊に導かれて荒れ野に行き、そこで悪魔から誘惑を受けられたでしょう。しかし、イエス様はそれらの誘惑をことごとく退けられました。その力と知恵は御父から注がれたものです。ヨルダン川でイエス様は御父のお声を聴かれたでしょう。イエス様の頭には今もそのお声が残って響いています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」その祝福と証の声と共に、新しい救いとそれに伴う平和を表すかのように、鳩の姿の聖霊がイエス様に下りました。その時、イエス様はご自分に与えられた大切な使命を悟り、それを素直に受け止められたでしょう。そして今、その第一歩を踏み出しておられるのです。その歩みは、先ず、ガリラヤから、そして、ゴルゴタまで続けられるでしょう。

ガリラヤからのイエス様の活動は成功を収めていました。その評判はすぐにも周りの地方一帯に広まったでしょう。みんなイエス様を誉め、尊敬していたのです。各会堂の会堂長たちもその評判を耳にしていたはずです。彼らは急いで自分の会堂にイエス様を招き、会堂長としての権威を示したかったかもしれません。しかし、イエス様はナザレに向かって足を運ばれました。「愛する母マリアに会いたい。そして、最も大事なお告げを、誰よりも先ず母マリアに伝えたい。」イエス様はそんな思いに溢れていたかもしれません。その最も大事なお告げとは何でしょうか。それは、神様の真の恵みの年の訪れのことでしょう。イエス様はナザレの会堂で教える際に、その喜びのお告げを多くの人に伝えられました。それはイザヤが語ったもので、イエス様はご自身がそれを伝え、証しするために来られたのを、はっきりと示されたのです。

その会堂でイエス様の瞳は輝いていました。まるで、その昔のイザヤのようです。イエス様の時代からおよそ700年前、イザヤは「神様の恵みの年の訪れ」を語りました。その時代、イスラエルは二つの国に分かれていたでしょう。北のイスラエルはもう滅亡に近づいていて、南のユダも危うい日々を過ごしていたのです。外見的にはアッシリアに脅されていましたが、イザヤは積み重ねてきた民の罪の歴史から、その絶望の原因を彼ら自身に見出していたわけです。「神様に背いた歴史、神様を遠ざけ、そのみ旨を調べようともしなかった歴史、むしろ、異邦人に頼り、その異邦人の神々を敬ってきた罪、誰もが神様の道から逸れて自分なりの生き方を固執した罪、その罪から離れて新たになろうともしなかった頑なな民の罪。」でも、イザヤは深い絶望と悲しみの中でも、神様に希望をおいていました。そして、神様の恵みの年、その聖なる喜びの年の訪れを告げていたのです。その言葉が今日イエス様の目に留まったわけです。

その恵みの年は50年ごとに訪れる特別な年です。人々はあらゆる形のすべての束縛から解放され、自由となる年です。金銭的な債務から、奴隷の身分から、罪から自由となります。しかし、それは法律的に守られる慣習的な解放だけではありません。互いに励まし合い、助け合い、支え合う心を回復する年です。みんなが神様に治められる民であることを悟り、新たになる年なのです。イエス様は、その年を見ておられました。イエス様の眼差しは輝いています。ご自分を通して、その年が始まるからでしょう。イエス様は見ておられました。バビロンの奴隷の苦しみの中で残された人々が戻って来て、神様の御前で涙したその姿を。イエス様は見ておられました。ご自分の死の前で涙しましたが、復活の前で喜び、そのまことの恵みの年を味わう人々の姿を。それはわたしたちのことです。イエス様と共に救いの聖なる年を始めませんか。