ある日、イエス様は多くの弟子たちと一緒に山に登り、夜通し祈られました。何のために、それほど祈られたのでしょうか。さて、いよいよ夜が明けました。イエス様の祈りも終わったようです。イエス様は弟子たちを呼び寄せられました。そして、慎重にその中から十二人を選び、「使徒」と名付けられました。暁と共に、新しい時が始まるような気がします。一行は、その荘厳な選任式の後、山から下りて平らなところに立ちました。彼らの目の前には、イスラエルの各地から来たおびただしい群衆が集まっています。あまりにも多くの人の群れに、一瞬息が止まるほどです。その群衆に、弟子たちは圧倒されたかもしれません。でも、そこで、イエス様は弟子たちを優しく見つめながら、教え始められました。「貧しい人は幸いである」と。
「貧しい人、飢えている人、泣いている人は幸いである。人々に憎まれるとき、人の子とために追い出され、罵られ、汚名を着せられるとき、幸いである。喜びおどりなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖たちも、まことの預言者たちに同じことをしたのである。」ところが、イエス様の目が少し曇ります。「富んでいる人、満腹している人、笑っている人は不幸である。すべての人に褒められるとき、不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」弟子たちの耳には、まるで次のように聞こえます。「あなたがたは、わたしの弟子だと言う理由で、貧しくなり、飢えることになり、泣くことになり、人々に憎まれたり、追い出されたり、罵られたり、汚名を着せられたりするであろう。でも、幸いだよ。喜びおどりなさい。その時こそ、あなたがたはわたしの真の弟子として認められるから。今、目の前にいるこの多くの人たち、先祖と同じことをするはずのこの人たちを恐れるな。」イエス様は望んでおられます。それは、ご自分の弟子たちが、みんな幸いな人、ご自分の真の弟子となることです。衝撃的なお教えです。でも、イエス様の衝撃的な教えは続きます。
十字架に釘づけられたイエス様の脳裏に、様々なことが過ります。実に多くの人々がイエス様を憎んだでしょう。しかし、イエス様はその人たちを憎まず、ただ、憐れみを注がれました。祭司長たちやピラトの前で、多くの人たちの訴えや、あらゆる悪口をも聞かれました。でも、イエス様は沈黙され、残酷な暴力にも耐え忍ばれました。そして今、十字架上で、イエス様はご自身を十字架に釘づけた人たち、罵ったり嘲ったりする人たちのために祈られます。兵士たちはイエス様の上着を分け合い、下着をおいてくじ引きしています。しかし、イエス様は誰一人裁かれません。ご自身が来られたのは、人を裁くためではなく、命をかけてすべての人を救うためだったからです。十字架を囲んでいる多くの人たちは、覚えているでしょうか、あの日のお教えを。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」イエス様は、その教えを、まさに十字架上での死に至るまで、証しされました。こうして、イエス様はご自身がいと高き方の子であることを示し、弟子たちも同じようになるのを望まれたわけです。
さて、本名意外につける名前で、雅号という言葉があります。韓国の金壽換枢機卿様の雅号は「甕」ですが、その雅号とは別に自らを「バカ」と言いました。本当にバカだったでしょうか。そうではありません。神様の国に入るためには、世の中の基準で「偉い」と言われるより、「バカ」と言われた方がましであることを示したわけです。今日イエス様は、「みんな神様の国のため、いと高き方の子となるため、バカとなりなさい」とおっしゃったような気がします。みんながバカとなると、互いに愛し合い、助け合い、支え合うことの大事さを切に感じます。暁と共に始まったその日の教えを忘れず、みんなイエス様の弟子として生きてまいりましょう。