姜真求神父 四旬節第3主日ミサの説教

 

今回の新型コロナウイルスのために多くの教区がミサを中止し、私達も四旬節第1主日からミサや様々な集いを中止してきました。当初は今日の主日ミサまで中止して、明日からは通常にミサを再開できると思っていましたが、色々なことを考慮して4月4日の朝の週日ミサまで、中止を延長することにしました。それは世界の国々の現在の状況、日本政府の対応や態勢などを熟考して決めたことです。四旬節のほとんどの期間を信者の皆さんと共にミサを捧げることができなくなって、本当に寂しいです。勿論、毎夜9時、ナン神学生とただ二人でミサを捧げていますが、悲しい気持ちを隠すことはできません。どうか神様が今回のウイルスとの戦いを早めに終えてくださるようにと祈るだけです。

さて、この頃、私は毎日のミサの中で、特に、ミサに臨む自分の姿勢を反省しています。助祭だった時、私は大きな鏡の前で、毎日のようにミサを練習しました。それは助祭たちの科目の中の一つでもありますが、そういう理由だけで練習したわけではありません。自分が一生をかけて捧げねばならない職務として、更に、全ての人の救いのためにご自身の御体と御血を差し出してくださったイエス様の命令に沿って行う聖務として、より真剣にやるべきだと思ったからです。そして、司祭になってからは、練習ではなく本物のミサを捧げてきましたが、今になって、助祭の時に行ったミサの練習の様子が時々頭に浮かびます。その時はただの練習にもかかわらず、本当に心を込めてやっていたのに、いつの間にか、少しずつ自分の心や姿勢が変わってきたのではないかという気がします。特に、今日の福音の御言葉を黙想しながら、今の私の様子を改めて反省しています。

今日の福音で、イエス様はあるサマリアの女と話し合いました。それはヤコブの井戸で起こった出来事で、イエス様はこの出来事を通して、神様が全ての人をご自身の民として招いておられることを示してくださいました。つまり、ユダヤとサマリアに隔てられていたイスラエルを、霊と真理をもって神様に真の礼拝を捧げる一つの民としてくださったということです。事実、ソロモンが死んでからは、ユダヤとサマリアは二つの国に隔てられて、互いに憎しみと恨みを抱いて敵対していました。 その状態は異邦人の支配の時代でも変わることなく、イエス様の時代まで続きました。そういう反感は、今日の福音のサマリアの女の、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」という話を通してもよく分かります。彼女は自分たちの先祖の時代から続いてきた習慣通り、何気なく、イエス様に対して反感を表していたのです。

しかし、イエス様はその屈辱的な扱いをお受けになりながら、少しずつ、彼女を信仰の道に導いてくださいました。その信仰の道とは、今の時代によく言われている特定な宗教生活への道ではなく、神様の慈しみと愛に向かう道なのです。言い換えれば、それは神様の慈しみと愛による救いの道で、もうすぐイエス様の死を通して現れる神様の永遠の命への道だと言えます。その導きに導かれたサマリアの女はイエス様との口論の代わりに、イエス様に永遠の命に至る水を願いましたが、まだ、どうしたらその水を得ることができるのかは知りませんでした。それで、イエス様は霊と真理をもって神様を礼拝することについて言われたのです。その結果、彼女だけではなく、村の人々が皆、イエス様のみ言葉を聞いて、イエス様を信じるようになりました。つまり、イエス様は今日、そのサマリアの女との対話を通して、私達がご自身の愛のみ言葉に耳を傾け、また、ご自身の愛の霊に従うことによって、神様に真の礼拝を捧げることができることを教えてくださったのです。確かに、イエス様は今日、ご自身こそが永遠の命への道であり、神様についての真の知識を持っている真理であり、また、永遠の命そのものであることを示してくださいました。

考えてみると、今の時代の私たちは今日の第1朗読のイスラエルや福音のサマリアの女のように、自分だけの望みとか願いをかなえようとしています。また、その現実的なことにこだわって、他人と争っている自分自身については、あまり気づかないまま生活している場合が多いです。そればかりか、信仰について疑いを抱き、厳しい現実で生き残るため、神様とイエス様の渇きには目をそらす時もあります。神様はイエス様の御体と御血によって、私たちに永遠の命の泉を与えてくださいましたが、私たちはその泉から離れて、この世の中の様々な水だけを求めているかもしれません。しかし、その偽りの水を求めれば求めるほど、私たちはもっとひどい渇きに苦しめられるはずです。

イエス様は、今日の第2朗読の内容のように、ご自身の死をもって私達を神様に立ち返らせ、神様との平和の中で生きることができるようにしてくださいました。また、ご自身の復活を通しては、私達に永遠の命を約束してくださいました。でも、その約束が叶えられる為には、私達もイエス様のように生活しなければなりません。実際、イエス様は私達がそのように生きることに渇いておられます。今、私達は本当に厳しい四旬節を過ごしていますが、ある観点から見たら、今年の四旬節は今まで私達がどのように生きてきたのかを考える機会でもあると思います。各々仕事や学業の為に分かれてしまったことと、職業や貧富、人種や国籍などの条件によって隔てられてしまったことに気づき、愛と赦しの実践を通して平和を築きながら、互いの渇きを癒やし合うべきです。これこそが、神様とイエス様の渇きを癒やして差し上げられることなのです。あわせて、私自身も反省していますが、今まで私達がどのようにミサに与ってきたのかをも顧みて頂きたいと思います。これからは真の霊と真理をもってこのミサを捧げることができたら幸いです。そうすると、私達のミサがイエス様の十字架の生贄と同じ礼拝となり、神様の御心に適うものとなるでしょう。私自身も助祭の時のように、誠実さを込めて毎日のミサを捧げたいと思います。神様がこの四旬節を通して、私達に豊かな霊的な水を与えてくださるよう、お祈りいたします。

カトリック二俣川教会主任司祭  ヤコブ姜 真求

☆彡フリガナ付きはこちらをクリックしてください。(Please click here for the FURIGANA version) 2020年3月15日姜神父様のお説教ふりがな付き