姜真求神父 四旬節第2主日ミサの説教

四旬節の初めからミサが中止となって、不思議な四旬節になってしまったような感じがあります。どうか、今回の新型コロナウイルスが一日でも早く収まるよう、神様にお願いいたします。また、この予期しない感染で亡くなられた方々や苦しんでいる患者さんの方々、また、今も世界各地でこの病気と闘っている医療界の方々や関係者の為にもお祈りいたします。

さて、私は司祭として、今回の事態の意味とは何かについて考えています。つまり、「神様はこの事態を通して私達に何を望んでおられるのか。」ということです。勿論、今回の疾病は神様から来たのだとは思いませんが、私達は福音に基づいて世界の全てのことを考えて、そこに隠されている神様の意向を見つけねばならないと思います。このような観点から見たら、今回の事態はただ一人だけの疾病でもない、一つの国の問題でもない、もはや全世界の苦しみとなっていて、やはり、これは新しい道への導きではないかという気がします。勿論、悲しくて悲惨な体験になっていますが、これから私達一人一人を始め、全世界がその新しい道を見つめ、その道に足を運ばねばならないと思います。また、その道を、先ず、私達信仰のある人々が歩み始めるべきだとも思います。

このように考えながら今日の福音について考えてみましょう。今日の福音で、イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られました。そこで、三人の弟子達はその時まで見たこともなかったイエス様の真の姿を目にしました。イエス様のお顔は太陽のように輝き、また、服も光のように白くなったということです。そして、旧約の偉大な人物であるモーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合っていました。その光景を見ている弟子達は、自分達の先生であるイエス様が、ただの人間ではなく、自分達の考えをはるかに超えておられる方であることが分かったでしょう。それで、ペトロが口をはさんでイエス様に、「主よ、私達がここにいるのは、素晴らしいです。お望みでしたら、私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言いました。しかし、ペトロがまだ話しているうちに、あたりは光り輝く雲に覆われ、続いて、天から「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」という声が聞こえました。それで非常に恐れた弟子達はそのままひれ伏してしまいましたが、イエス様は普段の姿で弟子たちに手を触れながら、彼らを落ち着かせて、また、慰めてくださいました。

今日の福音に関する伝統的な解釈によると、イエス様はご自身の受難に先立って、弟子達に復活の栄光を前もって見せてくださったと言えます。つまり、今日の出来事は、イエス様の受難と十字架上の死によって、弟子達が経験するはずの様々な不安、挫折、絶望などから、彼らを守る為の出来事であり、また、十字架の苦しみと悲しみを乗り越えてから、真の平和と栄光が与えられるということを教えて下さる為の出来事だということです。併せて、その十字架の苦しみや恐れの為に、その道を歩むことを避けようとする弟子達に、勇気と力を与える為の出来事でもあります。

実際、ペトロは栄光に満ちておられるイエス様の姿や昔の偉大な人物たちを見ながら、自分たちのいるべき居場所を忘れてしまいました。それで、「私たちがここにいるのは、素晴らしいです。」と言いながら、そこに留まろうとして仮小屋を提案したのです。すなわち、彼は一瞬、イエス様が罪人を救うために来られたことと、そのために十字架を背負わねばならないこと、また、自分たちもその道を歩むべきだということから、目を逸らそうとしました。それに対して、神様は天からの声を通して、ご自身が愛しておられるイエス様の言葉に耳を傾け、また、イエス様と共に歩むことを諭してくださいました。勿論、それは今の時代の私たちに向かう諭しでもあります。私たちも日々の十字架を避け、自分だけの楽な生活を求めてそこに留まろうとせず、むしろ、イエス様と共に十字架の愛の道を歩まなければなりません。

さて、去年の教皇様の東京ドームのミサには5万人ぐらいの信者さん達が集まり、私達の信仰を力強く示しました。その時の気持ちとは「いつもこういう雰囲気の中でいたい。」ということでした。しかし、今日の福音を考えたら、その幻のような所に留まることは神様のお望みではないと言えます。勿論、大変貴重な賜物でしたが、神様は私達がその経験をきっかけとして、もっと活発的に自分の生活の中で福音を知らせ、また、証しすることを望んでおられます。神様は今日も私達が留まっている所から離れ、ご自身が望んでおられる所に私達を遣わされます。これは今日の第1朗読のアブラハムが経験したようなものです。アブラハムを通して全ての人が祝福されることを望まれた神様は、今日、私達を通しても多くの人を祝福しようとしておられます。その祝福とは、今日の第2朗読が語っているように、神様がイエス様の十字架を通して与えてくださる永遠の命と真の平和なのです。

今回の新型コロナウイルスのため、人と人、国と国との間にもっと深いひびが入ろうとしています。私達は戦いや戦争などを通して平和を築けると思いましたが失敗しました。その後、様々な複雑な契約や約束を通して平和をもたらそうとしましたが、それにも限界があることは確かなことです。それで、今回の事態は、私たちに新しい道を見つけるよう促されているような気がします。そして、私はその道がイエス様の道だと思います。イエス様は戦いや争い、いじめや排斥によらず、十字架の道を通して完全な平和をもたらしてくださいました。また、同じ道を歩む人々、すなわち、私たちと共にして、私たちを支えてくださいます。だからこそ、私たちはそのイエス様の道を新しい平和の道として受け止め、その愛の務めを果たすべきだと思います。どうか、私たちを通して真の平和が祝福として与えられるようお祈りいたします。

カトリック二俣川教会主任司祭  ヤコブ姜 真求

☆彡フリガナ付きはこちらをクリックしてください。(Please click here for the FURIGANA version) 2020年3月8日姜神父様のお説教ふりがな付き