姜真求神父 四旬節第1主日ミサの説教

四旬節の始めの日である灰の水曜日、私はイエス様の40日間の荒れ野での生活の意味に対して話しました。イエス様は、その40日を通して、昔からの人間の過ちや罪を贖ってくださったのです。それは、人間の原罪からの4,000年・エジプトから解放されたイスラエルが荒れ野で過ごした40年・王たちの支配のもとで罪を重ねてきたイスラエルが囚われ人として他国で過ごした400年のことです。その長い年月の間に人間が犯した罪、また、今も私たちによって重ねられている罪の本質とは、神様に逆らいながら、自分を高めることなのです。つまり、神様より自分を優先しようとする、私たちの弱くてかわいそうな心の動きです。実際、アダムとエバから始まった罪の歴史を見ると、そこにはいつも、人間の高慢な心があったと分かります。

たとえば、エジプトの奴隷として生活してきたイスラエルは、荒れ野で、エジプトでの苦しみから解放されたのに、むしろ、食べ物や衣服などに拘って、エジプトに帰ろうとしたのです。そこに帰ったら、再び奴隷になってしまうはずですが、彼らは神様の導きより、奴隷になってでも自分たちの欲心を満たそうとしたということです。そういうわけで、解放されたイスラエルの中の第一世代の人々は神様の怒りを買って、荒れ野で死んでしまいました。

また、イスラエルは約束された地についたのち、神様の代わりに、王を求めました。それは、彼らが神様のみ言葉や導きよりも人間に従いたがったからです。そこで、神様はその要求通りに王を立ててくださいましたが、それからイスラエルが味わったのは、王たちの圧政・高官たちの搾取・偽りの預言者たちや偶像の司祭たちの欺き・また、終わりのない戦争でした。そして、ついに、彼らは囚われ人となって他国で400年もの時を過ごしながら、自分たちの先祖の言葉まで忘れてしまったのです。

イエス様はアダムとエバの原罪から積み重ねられてきた人間の罪の歴史を、ご自身の40日の苦難を通して改めて示してくださいました。また、ご自身から始まる新しい契約の民が歩むべき道をも教えてくださいました。それは、神様のみ言葉だけに耳を傾け、神様だけを信じ、また、神様だけに従うことです。現世的なことに心を奪われず、様々な苦しみや悩みの中にあっても神様により頼みながら、その神様の意向に沿って生きること、それが、今日の福音のイエス様を通して、私たちが学ばなければならないことだと思います。あわせて、イエス様が荒れ野へ行かれたのは、悪魔の誘惑と戦うためでした。それと同じく、私たちも自分の生活の現場で、色々な誘惑と戦わねばなりません。しかしその戦いは、私達だけが行うことではありません。荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝ったイエス様は常に、また、すぐそばで、私たちと共に戦ってくださいます。

そのようなイエス様の40日を思い起こしながら、私は次のことを考えてみました。神様は、世の中の様々な形のパンを追い求めている私たちの祈りの声を聴きたがっておられます。神様は、その腐ってしまうはずのパンのために、世の声に耳をうばわれてしまった私たちのかたくなな心を憐れんでおられます。神様は、色々な悩みや苦しみの中でさ迷っている私たちがご自身に向かって足を運ぶことを待っておられます。私たちが苦難の中で自分で気づかないうちに神様を試そうとしていても、神様は私たちを愛しておられます。むしろ、私たちが世の中の欲望・欲心に身を投じてしまうことを心配しておられます。神様は私たちの弱い信仰をご存知です。けれども、その信仰を強めてくださる方です。私たちが自分の信仰の弱さのため、この世の中の多様なものに身をかがめてしまうことを、神様は望んでおられません。

確かに、人間は世の中のものに耳を傾けてしまいましたが、神様はその様な人間に耳を傾けてくださいました。人間は世の中のものを得ようとして、自らを世の暗闇に投げ込みましたが、神様はその様な人間の為に独り子を遣わされました。人間は世の中のものの前に身をかがめてそれに従いましたが、むしろ、神様は人間の救いの身代金としてイエス様を遣わされて、ゴルゴタまでの道で、三度も身をかがめるようにしてくださいました。この様なイエス様の姿を前にして、私たちは自分自身が今まで、どの様に生きてきたのかを顧みざるを得ません。塵で作られた人間は、ただの塵なのに、塵のような世の中の物を追い求めながら、その塵を自分の誇りとして誇ろうとしているのではないかという気がします。

今日から、3月15日まで、二俣川教会のミサは中止します。四旬節の不思議なスタートになりました。司祭として、特に、教区司祭としては、この度の決定は本当に辛いことです。毎日、ミサを捧げながら、ご聖体と説教を通して自分に任せられている信者さんたちの霊的な渇きと飢えを癒すため務めるべきですが、残念ながら、しばらくの間、その聖務から手を離さなければならない状況になりました。これは、まるで、自分の羊の群れを放置するようなことです。でも、神様の慈しみ・イエス様の愛に皆さんを委ねます。また、私と信者の皆さんが、これまで歩んできた信仰の道を自ら顧みて、新たにすることができるよう神様に願います。どうか、神様が今の苦しい状況を抑え、私たちを救ってくださるようにお祈りいたします。

 神様の御手の中で、全ての命が守られますように。アーメン。

カトリック二俣川教会主任司祭 ヤコブ姜 真求 

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