先週の月曜日、ごみ袋を手に持って教会の庭へ足を踏み出した途端、親子と見える二人が勢いよく聖母子像の前に走ってきました。そして、びっくりしたような声で「あ、本当だ。」と叫んでから、何もなかったかのように駅の方へ走って行ってしまいました。本当に瞬間的な光景だったので、私も「今、何が起こったのか。」と、ごみ袋を持ったまま、しばらく狐につままれたような思いでした。それから、「アハ、そうだ。」とひらめいて、思わず口元に微笑を浮かべました。それは馬小屋でした。彼らはきっと降誕節の間、教会の前の道を通りながら、ずっと聖母子像の前に建てられていた馬小屋を見ていたはずです。でも、その馬小屋が一日にして消えてしまったことに気づいたのです。その事実を先に幼い息子が見つけて父親に言い、それから父親も「本当だ。」と叫んだに違いありません。そういう状況を頭の中で描きながら、私は「降誕節は終わらないものだ。」と思いました。イエス様はいつどこでもご自分をあらゆる姿で見せてくださり、それを見つけた人の心に新たにお生まれになるのでしょう。そして、その人の心に声をかけてくださり、ご自分の道に招いてくださるはずです。

今日の第1朗読で、神様はご自分のことをまだ知らなかった少年サムエルを呼ばれました。サムエルは母親のハンナの切なる祈りによって与えられた息子で、ハンナは彼を神様に捧げようとし、祭司エリに委ねたのです。こうしてサムエルは幼い頃からずっと神様の神殿で過ごすことになりましたが、神様との直接な出会いはまだありませんでした。そのサムエルを神様は今日、三度にわたって呼んでくださったのです。でも、サムエルはその神様の声を聞いて、自分を呼んだのは祭司エリだと思ったので、二度もエリのもとに行ったわけです。エリはサムエルのその様子を不思議に思いながらも、神様がサムエルを呼ばれたとは思いませんでした。しかし、ついにサムエルを呼んだのは神様ご自身だと気づいたエリは、サムエルに神様の声にどのように答えるかを教えました。それは「主よ、お話しください。僕は聞いております。」ということでしたが、サムエルの実際の答えは違いました。サムエルは「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と答えたのです。ここで一つのことを考えてみたいと思います。なぜ、サムエルはエリの教え通りに答えなかったでしょうか。事実、サムエルは神様がどういう方なのかを知らなかったし、神様と話すことなど自分にはありえないことだと思っていたはずです。なぜなら、それは当時のイスラエルの民の指導者であったエリにだけあり得ることだからです。その偉大なエリが神様を「主」と呼ぶのに、自分も同じ言葉で神様を呼ぶことなどあり得ないと思ったはずです。サムエルはそれほど素直で謙遜な人で、彼は一生、一度も神様に背いて自分なりの道を歩んだり、自分なりの考えを教えたりしたことはありませんでした。彼はいつも神様に従いましたが、神様も彼と共におられ、彼を支えてくださったのです。こうして、神様は祭司エリの賢明な導きを通してサムエルに出会い、彼を新しい指導者とされましたが、私にとってこのサムエルのことは、今日の福音のある徴のようにも見えます。

今日の福音で、イエス様は二人の弟子たちをご自分のもとに導かれました。その二人は洗礼者ヨハネと一緒にいましたが、ヨハネからイエス様を「神の小羊だ。」と聞いて、二人はイエス様に従い始めました。イエス様は彼らに、求めているものは何かと尋ねましたが、彼らは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか。」と質問しました。それはイエス様の居場所についての質問ではなく、イエス様を自分たちの先生としたいという希望を示すやりとりでした。その話に対してイエス様は「来なさい。そうすれば分かる。」と言われ、その日、彼らはイエス様のところに泊まったわけです。その二人の中の一人はシモンの兄弟アンデレであって、彼は先ず自分の兄弟のシモンに会い、自分たちがメシアに出会ったことを知らせました。それからアンデレはシモンをイエス様のところに連れて行きましたが、イエス様はすでに彼を知っておられたようでした。そこでイエス様はシモンにケファという新しい名前を授け、彼が将来、教会のペトロ、所謂、教会の岩となることを前もって示されたのです。

ところが、ヨハネによる福音は特別な形でイエス様の最初の弟子たちのことを語っています。つまり、マタイ、マルコ、ルカによる福音は、イエス様がガリラヤ湖のほとりで彼らを呼び集めたように語っているということです。しかし、いずれにしても、彼らは自分たちのすべて、例えば、舟や家族、同僚、或いは、自分たちがずっと従っていた先生まで捨てて、イエス様との新しい道を選びました。イエス様は彼らを導き、神様の新しい民である教会の礎とされたのです。ここで考えたいことは、教会と言われる、所謂、信じる人たちの集いに入るためには、先ず、何が必要なのかということです。それは、サムエルやイエス様の弟子たちのように、イエス様に素直に答え、また、従うことではないでしょうか。彼らは自分たちの未来を計らわず、自分たちの知識や生き方、やり方など、すべてを捨てて、ただ、イエス様と共に働くことを望んだのです。彼らにとって自分たちのことを固執したり、拘ったりするのは、イエス様の体である教会に背いた行いをすることに違いないことだったでしょう。

それに対して、今日の第2朗読は「みだらな行い」という言葉を用いて教えていますが、それはただ、個人的なことではありません。その「みだらな行い」とは、神様ではなく自分の欲望に従うことで、一人の人間としても避けるべきことですが、教会においてもそれは望ましくないことです。教会においての「みだらな行い」とは、先程話したように、自分の知識ややり方を固守しようとし、それで、教会の愛と平和を崩すあらゆる心の動きやそういった行動だと言えます。そのような頑なな態度や姿勢、思いなどを捨てなければ、教会はもはやイエス様のものではなく一人の人間のものとなるに違いないでしょう。パウロはそういう動きを警めながら、個人においても、教会においても、ただ、すべての人の身代りとなってくださったイエス様の愛に従い、自分も教会もそういう愛に守ることを勧めたのです。

再び緊急事態が宣言され、教会の公開ミサも二度目の中止を余儀なくされました。それを心に重く受け止めながら、私は信者の皆さんに、これをきっかけとして、自分に向かう神様の招きを改めて考えてみていただきたいと思っています。神様はイエス様の愛の御業を通して私たちを贖い、ご自分の子とするために、あらゆる形で私たちを呼んでくださいました。その招きに対して、どういう心で応えてきたのか、また、その愛をどう証ししてきたのか、真剣に顧みるべきだと思います。神様の愛は変わることなく、今も私たちに向かって声をかけてくださっています。この状況が終わったら、信者の皆さんと共にミサを捧げながら、神様の愛の招きに新たな心で応えたいと思います。神様の愛と豊かな恵みが信者の皆さんを守ってくださいますように。アーメン。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2021年1月17日姜神父様のお説教

★Please click here for the FURIGANA version)  ⇒ 2021年1月17日姜神父様のお説教ふりがな付き

★ 今週の福音朗読はこちら福音朗読

☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り ⇒ COVID-19inoriB7