神学校に入学してから、スータンを着る着衣式、朗読職授与式、祭壇奉仕職授与式、助祭叙階式、そして、司祭叙階式で、わたしはその度毎に名前が呼ばれ、それぞれの職務をいただきました。勿論、そのような選抜は、あちこちの小教区の司祭や特別担当司祭としての任命書を通しても示されますが、とにかく、自分の名前が直接呼ばれることとはちょっと違う感じがあります。それはある職務が自分にだけ任せられるという感じで、その職務の内容を始め、それからの生き方や行くべき道が心に深く刻まれるような感じだと言えます。事実、私は司祭叙階式が自分の名前が呼ばれる最後の機会だったと思いながら生きてきました。ですから、その叙階式から22年過ぎて、宣教司祭の派遣のミサでもう一度自分の名前が呼ばれるとは夢にも思わなかったことでした。その時の気持ちは言葉では表現できないほどですが、率直に言うと、感謝よりも恐れがもっと大きかったです。神様のお召しの不思議さや、それをどう受け止めるべきなのかということが改めて感じられ、ただただ、神様の導きと恵みと力だけを祈り求めるしかありませんでした。

先週の日曜日の説教では、祭司エリの後継者であるサムエルと、洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレともう一人、そして、使徒ペトロについて話しました。彼らは自分たちのことを考えず、むしろ、自分たちのすべてを捨て、神様に素直に従いました。それでサムエルはイスラエルの新しい指導者となり、また、イエス様の弟子たちはイエス様に従って教会の礎となったのです。その自己放棄と従順、神様とイエス様に向かう信仰と愛は、今の時代の私たちが学ぶべきことで、そういった生き方によってすべての人が福音の光で照らされ、愛の道に導かれるのだと思います。言い換えれば、サムエルがエリを通して神様に出会ったように、また、アンデレと他の一人の弟子が洗礼者ヨハネを通してイエス様に出会ったように、併せて、アンデレを通してペトロがイエス様に出会ったように、私たちを通して神様は多くの人を呼ぼうとしておられます。その大事な役目を果たすために、先ず、私たちが自分を捨て、神様とイエス様に従うことは当前でしょう。そういう意味で、今日も預言者ヨナや、イエス様の最初の四人の弟子たちのことを、信者の皆さんと一緒に黙想したいと思います。

今日の第1朗読で、神様はヨナをニネベに遣わされ、ニネベの住民たちを悔い改めさせました。そのニネベという都は一回りするのに三日かかるほど大きな都でしたが、ヨナはたった一日でやり遂げ、神様の怒りとそれに伴う罰を告げ知らせて、ニネベのすべての人が悔い改めるようにしたのです。しかし、ヨナは最初から神様の命令に素直に従ったわけではありませんでした。従うどころか、むしろ、神様から逃げようとしたのです。神様はそのヨナを大きな魚のおなかの中で三日間過ごさせ、先ず、ヨナ自身が悔い改める人となるようになさいました。それから神様は、再びヨナをニネベにお遣わしになり、その大きなニネベを救いの道に導かれたのです。これがヨナの召命の次第ですが、このことから私たちは神様の慈しみと憐れみの御心が分かり、また、神様はその御心ですべての人を救うことを望んでおられることが分かります。

同じく今日の福音で私たちは、自分のことだけに夢中になっていた4人の漁師たちに、声をかけてくださったイエス様に会いました。彼らはそれぞれ自分の船で網を打ったり網の手入れをしたりしていたが、イエス様に呼ばれました。その時、イエス様は「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と声を掛けられましたが、それを聞いた彼らは、自分たちの船や網、家族や雇人たちまで捨ててイエス様に従い、イエス様の最初の弟子となったのです。そのイエス様の言葉が彼らにどういう風に聞こえたかは分かりません。ただ、彼らは神様から遣わされた預言者、或いは、メシアのような存在だった洗礼者ヨハネがヘロデに捕らえられたことを知り、神様への希望を失ったまま自分たちの日常の生活に戻っていたでしょう。そんな彼らに、イエス様は「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われ、彼らにとってイエス様が新しい希望のともし灯となったのです。そのイエス様が、直接自分たちに声をかけ呼んでくださったので、彼らは何一つためらうことなくイエス様に従ったに違いありません。勿論、彼らはイエス様に従い、また、人間を取る漁師になることがどういうことかについては、まだ、はっきりと知りませんでした。しかし、彼らはそのイエス様の呼びかけによって、この世の現実のことに拘ってきた自分たちに気づき、永遠の神様のことを考え始めたのでしょう。確かに、イエス様は、神様がイエス様ご自身を通して、人間を罪と死から救おうとしておられることを少しずつ教えながら、彼らに「人間を取る漁師」としての道を示してくださいました。その道は永遠の神様の国への道で、憐れみと慈しみの道、愛と平和の道なのです。やはり、その道は世の中の争いと戦いの道、悲しみと苦悩の道とは異なる道でしょう。弟子たちは今日の福音で、イエス様によってその道に導かれましたが、それからは自分たちがもっと多くの人に声をかけて、その道に導く大事な役目を果たすことになったのです。

その道を歩むことについて、今日の第2朗読で使徒パウロは、まるで、現実から目をそらしなさいと言う風に話していますが、それは永遠なことについて考えさせるためでした。実際、コリントの教会はとても豊かな教会でしたが、パウロにとっては愛の足りない教会のように見えました。言い換えれば、神様を信じていると言いながらも、現実の富やあらゆる力を追い求め、永遠の神様の御心とイエス様の愛の福音からどんどん遠ざかっていたということです。それについてパウロは彼らに手紙を通して警鐘を鳴らしましたが、それは今の時代の私たちに向かう警鐘でもあると思います。事実、神様を信じていると言っても、自分のことや世の中のことだけを考えたり、それに拘ったりしたら、私達への神様のお召しは無駄なこととなるはずです。なぜなら、自分や世の中のことに心を奪われれば、神様の慈しみと憐れみ、また、イエス様の愛と平和が目に見えないようになり、自分も他人もその道から遠ざかるようになるからです。私たちは皆、誰一人として、漏れることなく神様に呼ばれ、神様の救いの御業に与るよう選ばれた人たちです。私たちがただ神様に従い、イエス様の愛に導かれようとしたら、それにふさわしい知恵と恵みと力は与えられるはずです。わたしは信者の皆さんがそういう人となることを望んでおり、毎日のミサや祈りの中で必要な恵みを祈り求めます。どうか、神様が信者の皆さんを守り、神の国への道を忠実に歩むようにしてくださいますように。アーメン。

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