先日は、誕生日のお祝いのメッセージを多くの方々から頂き、私はとても嬉しかったです。本当にありがとうございました。再び公開ミサが中止されている今の状況の中で、思いもかけなかったプレゼントやメッセージを通して、私は新たな力をも頂きました。実は、再び緊急事態宣言が発令された時、公開ミサまで中止するつもりはありませんでした。しかし、色々なことを鑑みて、ミサの中止を決めざるを得なくなり、私の心はとても重かったです。昨年の3月からほぼ毎日、私達はこの病気についての様々な情報を耳にしてきました。そして6月になってようやく公開ミサが再開でき、待降節からは申し訳ありませんでしたが、各地区に典礼奉仕をもお願い致しました。でも、再びミサが中止され、去年から色々工夫した対策までが空しくなったような気がしました。その中で、もう耳に慣れている「不要不急」という言葉が私の心を痛めました。その痛みは「そうか、今私は、いや、今まで私は『不要不急なこと』をやってきたのか。」という思いでした。そして「今、こういう状況だから、ミサは不要不急なものとなってしまったのか、それとも、そもそも不要不急なものだったのか。」という疑いまで心に生じてしまったのです。そんな憂鬱な気持ちのさなかに頂いた皆さんからのメッセージは、私に新しい力を与えてくれました。そして、公開ミサも大事なことですが、先ず、私たちの心をもっと新たにすることが必要だと思うようになり、今日は、それについて信者の皆さんと共に考えたいと思います。

先々週と先週の主日、私たちは御言葉を通してサムエルやヨナ、また、イエス様の最初の4人の弟子たちについて聴きました。彼らは皆、神様やイエス様に従い、それぞれイスラエルを導いたり、ニネベを回心させたり、イエス様の使徒として神様の愛と慈しみを証ししたりした人物なのです。でも、彼らはそういった信仰の模範となる前、先ず自分たちの全てを、例えば、家族や財産、また、自分の考えややり方まで捨てねばなりませんでした。そして、ひたすら神様とイエス様の声に耳を傾け、その導きや教えに従ったのです。実は、それこそが信仰の道への第一歩に違いないし、最後まで続くべき一歩でもあると思います。私たちも常にそういう姿勢をもってこの信仰の道を歩める恵みを祈り求め、それを保たなければならないと思います。

今日の福音で、イエス様は安息日に会堂で教えておられた時、悪霊に取りつかれていた人を解放してくださいました。その時彼と一緒にいた人々は、イエス様が律法学者のようではなく、権威をもって教えられることに驚きました。普通、安息日の集いでは聖書が読まれた後、ラビという律法の専門家がその御言葉を説明したりするのですが、その日はイエス様がその御言葉を説明なさったようです。そこで、汚れた霊に取りつかれていた彼はイエス様のその権威ある教えを聞いて、突然、声を出して自分をあらわにしました。彼は「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫んだのです。ここで、二つのことを信者の皆さんと共に黙想したいと思います。

先ず、会堂にいた人たちがイエス様の教えから感じた権威とは何かについてのことです。彼らがイエス様から権威を感じたというのは、逆に言うと、律法学者たちからは権威を見つけられなかったということでしょう。きっと、ラビや律法学者たちは自分が学んだこと、自分なりに研究したことなどを、昔からの習慣通りのやり方で教えていたはずです。それは律法や規則についての説明で、それに伴う罪や罰が主なテーマでした。しかし、当時、律法は一部の上級の人たちが学べるもので、それを学べる機会もお金も恵まれなかったほとんどの人たちにとって、律法は高根の花にすぎないものでした。その人たちは自分の思いにかかわらず、自分も知らないうちに、罪人と定められたのです。ですから、会堂で聞く律法学者たちの教えからは、慈しみ深い神様とか、憐れみと愛に満ちておられる神様には出会えなかったのです。むしろ、怖い権威と高圧的な教えから、人々は自分たちがいつも監視されたり、咎められたりする気持だけが感じられたはずです。それに比べてイエス様には特別な権威が感じられたのでしょう。そのイエス様の権威とはどういうものでしょうか。それは愛と慈しみ、憐れみに違いありません。そのイエス様の教えから、人々は温かい神様、人を見守ってくださる神様、人を愛し、また、生かしてくださる神様に会えたでしょう。それがイエス様の権威だったのです。しかし、そこに汚れた霊に取りつかれていた人がいて、彼は妬みと拒否感に満ちて、イエス様に大声で逆らい始めました。

その霊はイエス様を知っていたのに、それに従おうとはせず、むしろ、自分を「かまわないでくれ。」と、イエス様に命じました。その話から私たちは、その汚れた霊が「人を苦しめる霊、人を強いる霊、人を虐げる霊」であったことが分かります。その汚れた霊は人間を、愛と慈しみの神様ではなく、本に書いてある律法や規則の文字に従わせる霊で、人が神様の愛に出会って解放されることを妨げたかったに違いありません。ですから、イエス様の権威、即ち、神様の愛と慈しみの御言葉を聞いて、逆に、イエス様が自分を邪魔する方だと知り、強く反発したのです。イエス様はその汚れた霊を叱り、そして追い出し、その人を悪霊から解放してくださいました。こうしてイエス様は人の命を守り、また、生かしてくださる神様の愛を証しされたのでしょう。

今日の第1朗読では、神様はご自分の民のために新しい預言者を立て、彼がモーセのように神様の御言葉を語るようになるとおっしゃいました。でも、人々は神様から遣わされた多くの預言者たちの声に耳を傾けようとしませんでした。そこで、神様は最後にご自分の独り子であるイエス様を遣わされ、あらゆる時代のすべての人をご自分のもとに立ち返らせようとされたのです。私たちも同じようにイエス様の教会で、特に、ミサの中で神様とイエス様の御言葉を聞き、イエス様の愛の御業に与れるわけです。ですので、教会は温かくて慈しみ深い神様に出会うところであること、そして、ミサはその神様を示してくださるイエス様との出会いの時間であることは言うまでもないことでしょう。自分の考えややり方、形式や規則、先入観、偏見などの汚れた霊のようなものに取りつかれてしまったら、それは何と哀れなことでしょう。今日の第2朗読で、使徒パウロは結婚に例えて信仰生活について語っていますが、私たちは信仰のある人としての品位を保つべきです。その品位とは愛を通して表わされるもので、私たちの信仰の証でもあります。互いに忍耐し合い、励まし合い、愛し合うことによって、皆が共に、この信仰の道を最後まで歩めるようになるのです。教会に愛がなければ、私たちのミサはもはや「不要不急」なものとなってしまうに違いありません。信者の皆さんとの公開ミサができる日を待ち望みながら、その日まで、神様が私たち一人一人を愛で満たしてくださるよう、お祈りいたします。

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 1月31日主日の説教

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第29回「世界病者の日」の教皇メッセージ(21.11.1)はこちら =>https://www.cbcj.catholic.jp/2021/01/29/22035/

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