いわゆる、世界代表司教会議と言われる「シノドス」の開幕ミサが先週の主日、すべての国の各教区で行われました。そもそもシノドスという言葉はギリシア語で、「共に」を意味する「シン」と言う言葉と、「道」を意味する「ホドス」が組み合わされた言葉です。ということで、シノドスとは「道をともに歩くこと」、つまり、全世界のすべての信仰のある人たちが、この信仰の道を共に歩むために必要なことを考え、また、提案するための会議なのです。普通、シノドスで議論され、決められたことは、教区長の承認を得て教会法のようなものとなります。なぜなら、それは普遍教会が「その時代の教会の歩むべき道」について議論し、提案するものだからです。ですから、シノドスという会議は「上からの提案」のように見えますが、今回は異例的に、各教区から先ず、様々なテーマについて分かち合い、また、議論することが求められています。これはフランシスコ教皇様が希望された結果だと思われますが、とにかく、牧者たちによって導かれるだけでなく、すべての信者の皆さんが「牧者と共に歩んでいる人たち」として認められたとも言えます。羊飼いが一匹の羊も失うことなく、すべての羊たちと共に信仰の道を歩もうとするのは、何と素晴らしいことでしょう。どうか、今回のシノドスを通して、これからの私たちの信仰の道が神様のみ旨に適うものとなるように、とお祈りいたします。

今日の福音でイエス様は、「ティマイの子」と言う意味の名前で、バルティマイと言う盲人の目を見えるようにしてくださいました。何も見ることが出来なかった彼はいつも道端で物乞いをしていて、それが彼の仕事のように見られていたようです。しかし、彼は「ナザレのイエスだ」と聞いてから、心からの願いをイエス様に切に申し出ました。その声や騒ぎがどれほど大きかったでしょう。結局、多くの人々が叱りつけて彼を黙らせようとする状況にまでなったのです。でも、バルティマイは絶えず、イエス様に向かって「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫び続けたわけです。そこで、イエス様は立ち止まって「あの男を呼んで来なさい。」と言われ、それを聞いた人たちは彼に「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」という言葉で声をかけました。きっと、イエス様は彼が上着を脱ぎ捨て、躍り上がってご自分のところに来るのを見つめておられたでしょう。その様子を見つめておられたイエス様の御心は、どれほど熱くなったでしょうか。イエス様はそういう心を持って彼に「何をしてほしいか。」と言われましたが、彼は「先生、目が見えるようになりたいのです。」と言いました。そこでイエス様は、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と仰せになり、彼はすぐ見えるようになってイエス様に従う者となったわけです。

きっと、イエス様はご自分の仲間としてバルティマイも加えられて、イエス様の一行と「共に歩むこと」を望まれたのでしょう。多くの人々が眉をひそめ、大声で叫んだ彼を叱っていたその時、イエス様は「あの男を呼んできなさい。」とおっしゃいました。そして、彼の願いを聞き、それを叶えてくださいました。それこそが憐れみ深い神様の御心で、イエス様はその御心を持って、彼を憐れまれたのです。その御心について、今日の第2朗読も語っていますが、イエス様は「メルキゼデクと同じような大祭司」として神様から遣わされ、人間のためにご自分の命を神様へのいけにえとして捧げられました。イエス様は人間を同情できない冷たい方ではなく、むしろ、人間の様々な弱さや悩み、苦しみなどをよく知っておられる方なのです。そのイエス様にとって、目が見えなくて、物乞いをするしか何もできないバルティマイが、そういう理由で無視されても構わないと見なされることは、絶対あり得ないことだったでしょう。イエス様にとって、彼はただ病に苦しんでいる一匹の弱い羊だったのです。イエス様は、今日の第1朗読に記されているように、すべての人を神様の国へ導かれるために来られました。イエス様が導かれるその群れの中には、丈夫で元気な人、賢くて偉い人、身分の高い人や、知識の豊かな人たちだけがいるのではありません。その中には、弱くて貧しい人や涙している人、色々な苦しみで悩んでいる人もいて、その群れを一つにしてくれるのは、イエス様の愛と慈しみの御心だけなのです。今日、道端で物乞いをしていたバルティマイは、そういう心を求めていたではありませんか。イエス様は彼にご自分の愛と慈しみの御心を与えてくださったのです。そして、彼がイエス様と「共に歩める」ようにしてくださったのです。

教会から、弱い人たちの姿が消えたら、その教会は自分が弱くなったと自覚すべきです。教会から、子供や中高生、また、青年たちの声や意見が聞こえなくなったら、その教会は自分が若返ることができなくなったことに気づくべきです。教会から、知識や経験が足りない人が見えなくなり、何人かの偉い人たちだけが見えたら、その教会は自分の知識と経験だけを誇っている憐れな集団となったことに恥を覚えるべきです。そういう教会になったら、教会は自らを迫害していることに違いありません。教会はただ、愛と慈しみに飢え渇いていて、そういう心と思いやりを物乞いする人たちの集いで、わたしたちはそれをイエス様からいただいている人たちなのです。だからこそ、私たち一人一人も、互いに支え合い、憐れみ合い、赦し合い、また、愛し合うべきです。その時、まさに、わたしたちは「イエス様の愛の群れとなって、共に歩む」ことができるでしょう。これからも、信者の皆さんと、そういう共同体をつくるために働くことができるように、お祈りいたします。

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