個人的なことですが、わたしは目上の人とか偉い人と食事をすることが苦手です。それは、食事をしながらどんな話をするか、或いは、どういう風にその時の雰囲気を作ればよいかなどの思いが、まさに、ストレスとなるからです。ですので、助任司祭の時には、主任神父様との毎回の食事が大きな悩みの一つでした。そんな私の性格を考えながら、わたしの守護の聖人である聖ヤコブ使徒に思いを馳せます。特に、今日の福音を読む度に、わたしは使徒ヤコブの大胆な様子に、いつもうらやましさを感じてしまいます。守護の聖人に倣うべきなのでしょうが、目上の人や偉い人の隣にいるのが苦手なわたしにとって、今日の福音に記されている使徒ヤコブの姿に倣うことは、一生、難しいことだと思っています。

今日の福音で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエス様が「栄光をお受けになるとき」、自分たちをイエス様の左右に座らせてくださることを願いました。二人はイエス様がおっしゃった通り、「自分が何を願っているか、分かっていなかった」でしょう。そこでイエス様は先ず、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」とお尋ねになりました。その質問に対して二人は「できます。」と答えましたが、それは何と自信満々な態度だったでしょう。きっと彼らは、その答えで自分たちの決意を示すことができ、イエス様に認められると思ったはずです。その答えを聞かれたイエス様は、「確かに、二人はイエス様の盃を飲み、また、洗礼を受けることになる。」と言われましたが、残念なことに、ご自分の左右に座れるのは「定められた人々に許されるのだ。」とおっしゃいました。そのやりとりを知った他の十人は、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めましたが、イエス様は皆を呼び寄せて教え諭すかのように言い始められました。イエス様は先ず、「異邦人の間では、支配者と見なされている人が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われ、更に、「しかし、あなたがたの間では、そうではない。」と、はっきり言われました。それは、弟子たちの間では、決してそういうことがあってはいけない、という意味でしょう。イエス様は彼らが異邦人、すなわち、世の中の普通の集団のようになることを望まれなかったので、そうおっしゃったわけです。そして、イエス様はご自身が望んでおられる弟子たちの真の姿について、次のように教えられました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と。そのうえでイエス様は、ご自身が「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として」ご自分の命を献げるために来られたと明確に言われ、弟子たちがご自分のようにならなければならないということを教えられたわけです。

今日の福音の中で、特に注目したいのは、イエス様がヤコブとヨハネにおっしゃった、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」という御言葉です。なぜ、イエス様は「わたし」ではなく、「このわたし」と言われたのでしょうか。これは多分、日本語の特別な翻訳による表現だと思いますが、わたしにとってはとても意味深く感じられました。恐らく、イエス様は弟子たちがご自身から目をそらして、世の中の風潮や風習、或いは、通念に従うことを気にされたでしょう。そこで、「このわたし」という言葉は、まるで、「わたしはあなたがたが考えているわたしでなく、世の中の人たちが理解しているわたしでもない。天の御父が特別な使命を負わせて遣わされたわたしなのだ。」と、強く訴えているようです。その使命とは何でしょうか。

今日の第1朗読で、預言者イザヤは「自らを償いの捧げ物とする」人、つまり、イエス様のことを語っています。イエス様はもうすでに自らの苦しみの実を見、それを知って満足して、多くの人が正しいものとされることを望まれ、彼らの罪を自ら負われました。それこそが、イエス様が御父から頂いた使命で、イエス様はただそれを叶えるために来られたわけです。イエス様はその使命を仕方ないからではなく、喜んで受け止められました。ということで、今日の福音でヤコブやヨハネ、また、彼らのことで腹を立てたほかの弟子たちを戒められながら、ご自身のその使命を改めて教えられたのです。それは「皆に仕えるものとなり、すべての人の僕となるため」、また、「多くの人の身代金としてご自分の命を捧げるため」でしょう。イエス様はそのために受けねばならない苦しみや悩み、また、十字架上の死と、その恥ずかしさまで喜んで受け入れられ、御父から頂いた使命を全うされました。それはすべて神様の慈しみと愛、また、それによる救いの計画だったのです。神様は人間の弱さは勿論、それによる罪や咎、そして、その結果、人間が抱くことになる苦しみや悩みなどをもよく知っておられます。その神様の御心については、今日の第2朗読も語っていますが、神様はその憐れみと愛の御心をすべての人に示すため、イエス様を遣わされたわけです。そして、神様を信じ、イエス様に従うすべての人も、イエス様のように生きて、その憐れみと愛が世の中で満ち溢れることを望んでおられます。ですから、私たちの生き方もイエス様のように、「皆に仕えることと、すべての人の僕となる」ことしかほかありません。

ところで、イエス様の左右とはどんな所でしょうか。イエス様は愛ですから、イエス様の左右とは、愛の左右、言い換えれば、愛のある所です。イエス様の隣にいたいなら、とにかく、愛を実践すべきです。そうすると、そこにイエス様がおられ、わたしたちは皆イエス様のすぐ傍にいることができるのです。わたしたちが皆に仕える人となり、すべての人の僕となって、あらゆるところのすべての人に愛をもたらすことができるよう、お祈りいたします。

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