ある先輩から聞いた、「掃除の基本は捨てること」という言葉があります。時々、わたしは自分の部屋を見ながら、そういう思いがわき起こります。先日わたしはある韓国人の神父様の小教区に行って、司祭館でいろいろ話した時、その神父様の部屋を見てとても驚きました。その神父様の部屋は、わたしの部屋とは比べものにならないほど整然として、とてもきれいだったからです。物も少ないし、家具も少なかったのですが、何より驚いたのは、わたしの部屋と違って、色々な物や書類があちこちに散在していないし、そういう物自体が全く見えないということでした。お恥ずかしい限りですが、わたしは時々、自分がとても情けなく感じてしまいます。そして、なぜ自分の部屋はこんなに雑然となってしまうのかを考えながら、ふと、先輩から聞いた「掃除の基本は捨てること」という言葉が頭をよぎりました。そして、「なぜ、わたしは捨てるのが苦手なのか」について考えましたが、今日はその考えを信者の皆さんと分かち合いたいと思います。

今日の福音で、イエス様はある人から「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」という質問を受けられました。イエス様は律法の掟を言われながら、彼に「あなたはそれを知っているはずだ。」と答えられました。それを聞いた彼は、自分は子供の時からそれを守ってきたと言い、その他に何が必要なのかを、もう一度イエス様に聞きました。そこでイエス様は彼を見つめ、慈しみながら「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われました。その言葉を聞いた彼は気を落として、悲しみながら立ち去りましたが、福音は、彼の悲しみの理由を「彼がたくさんの財産を持っていたからだ。」と語っています。その後、イエス様は弟子たちに、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とおっしゃいました。それを聞いた弟子たちは驚いて、「それでは、誰が救われるのだろうか。」と互いに言いましたが、イエス様は「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言われました。そして、イエス様のため、また、福音のために自分の家族や持ち物を捨てる人は、それらを百倍で受け、また、後の世では永遠の命をも受けると教えられました。

今日の福音を黙想しながら、わたしはあの金持ちの悲しみについて考えてみました。きっと彼は、イエス様が自分に無理なことを要求されたと思ったでしょう。しかし、考えてみたら、今日イエス様がおっしゃったのは、たくさんの財産が人を救うのではなく、神様が救ってくださるのだということが分かります。つまり、人間は自分が持っているものによらず、神様によって救われるということで、神様を信じなければ、また、イエス様に従わなければ、人間は決して救われない、ということです。そういう意味で、イエス様は「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」とおっしゃったわけです。言い換えれば、神様は人間が救われるために必要なことをその人に悟らせ、その人を神様に従わせることができるということでしょう。それはまるで、らくだを針の穴に通らせることと同じことです。人間にはそれができないけれども、神様はそれができる方なので、自分の持ち物ではなく、神様に自分を任せることによって、自分を救うことができるのです。

今日の第1朗読の知恵の書は、神様からの知恵に比べられるものは、この世に何一つないとはっきり語っています。知恵の書の著者は、自分が神様に悟りを祈り求め、また、知恵を願ったのは、知恵がなければ富や宝石、金銀や健康、容姿の美しさ、光さえ意味がないからだと記しました。その知恵とは正しい生き方で、人生の道を正しく導いてくれる神様の賜物なのです。知恵は人間が神様に従うように導き、それを悟らせてくれますが、それに従わないと、人間はいかに素晴らしい財産や知識、名誉や健康を持っていても、正しく生きることができなくなるのです。しかも、そういったものを頼みとし、神様を拒んだら、人間は自分の思いや考え、また、自分の様々な持ち物にこだわり、その暗闇の中でさ迷うはずです。さらに、今日の第2朗読は、神様の言葉の力について語っています。神様の言葉の鋭さ、また、強さは、人間のかたくなな心や不信仰、愚かさを露にするほど力ある者なので、その神様の前で、人間は自分を隠すことができませんが、逆に言うと、その言葉に従ったら、人間は神様の子供として生きることができるのです。その神様の知恵、また、言葉とは何でしょうか。それはまさしくイエス・キリストでしょう。イエス様は神様の知恵、神様のみ言葉でありながら、ご自分のことを考えず、人間の救いのために来られました。そして、神さまの慈しみと愛による救いの御業を成し遂げられ、わたしたちに救いの道、すなわち、愛の道を示してくださいました。ですから、わたしたちも自分に拘らず、また、自分の様々な利己心や欲心を捨て、イエス様に従うべきです。

さて、「なぜ私は捨てることが苦手なのか」についてですが、捨てようとしても、「これはまだ。これは要る。これはちょっと。」などと物への執着心を持ったり、「これがなければ困るかも。」という杞憂もあったりして、うまく捨てることも、きれいに掃除することもできないのだと思います。その思いと共に、イエス様に従う前、先ず、自分が何に拘っているのか、何に心を奪われているのかを真剣に考えることが必要ではないかという気がしました。これからは神様に全てを任せ、わたしたち皆がイエス様に従って、神様の子どもとしての道を歩むことができるよう、お祈りいたします。

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