今日は教会の1年が始まる待降節第1主日です。教会は年ごとに降誕祭の前、四回の主日を待降節と言い、所謂「救い主の到来までの四千年」を改めて思い起こしながら過ごします。その四千年というのは、アダムの原罪からイエス・キリストの誕生までの年月を指します。神様の愛の創造物である人間はその愛に背いて罪を犯し、その罪の奴隷となりました。というのは、すべての人間は罪への傾きをもって生まれ、その罪の結果である死を迎えねばならない存在となったということです。神様はこの憐れな人間のために、また、人間の罪によって苦しむすべての被造物の救いのために、ご自分の独り子であるイエス様を遣わされ、そのイエス様に全ての人の罪を担わせられました。イエス様のその救いの御業のお陰で、わたしたちは神様がどれほど人間とすべての被造物を愛しておられるかを知り、更に、イエス様のように生きることによって皆が救われるということを信じるようになったのです。今日から過ごす待降節とは、そのイエス様の誕生を待つ期間であり、その間、わたしたちは祭壇の前の特別なろうそくを主日毎に一本ずつ加えて灯しながら過ごし、全部で四本、すなわち、救い主への四千年の切望を、改めて神様に願うわけです。また、そういう意味で、「清めと悔い改めの期間」と呼ばれる四旬節とは異なって、待降節は「待ち望みと準備の期間」と言われ、救い主の誕生を待ち望みながら、その準備として各々の心を整えることが勧められるのです。

今日の第1朗読でエレミヤは、神様がイスラエルとユダのために正義の若枝を生え出でさせることを語っています。エレミヤはその若枝が公平と正義をもって国を治めると伝えましたが、その公平と正義は神様の慈しみと愛に基づいたもので、それによって治められる国には人間の基準や規則による一切の差別や分裂、争いや戦いなどはないはずです。エレミヤは続いて、「その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」と語りました。それは、その時こそ、世の中は人が住めるところとなるという意味でしょう。言い換えれば、神様の慈しみと愛がなければ、そこはもはや人が住めるところではないということです。神様はエレミヤを通して、ご自分の慈しみと愛による救いは若枝によって全うされることを示されましたが、その若枝とは言うまでもなくイエス様のことなのです。

今日の福音で、イエス様はご自分の再臨について語られました。その日は世の終わりの日でもありますが、自然万物には大きな徴が現れ、諸国の民は恐ろしさのあまり気を失ってしまうだろうと、イエス様は言われました。このイエス様のお話は一見、世の中のすべてのものの完全な滅びについての宣告のように聞こえるかもしれません。でもイエス様は続いて、「このようなことが起こり始めたら、身を起して頭を上げることができるようにしなさい。」と言われ、更に、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」と言われました。そして最後に、人の子、すなわち、再び来られるイエス様ご自身の前に立つことができるように、「いつも目を覚まして祈りなさい。」と仰せになりました。このイエス様のお話を考えたら、今日の福音はただすべてのものの完全な滅びでなく、救いのために務めなさいというメッセージを語っておられることが分かります。では、その務めとは何でしょうか。

今日の第2朗読で、使徒パウロはイエス様の再臨について語っています。このテサロニケの教会への手紙で、パウロは例えば、「イエス様に属するすべての聖なる者たち」とか、「聖なる、非のうちどころのない者」とか、或いは、「主イエスに結ばれた者」という言葉を使っています。その人たちは言うまでもなく、愛によって聖なる者となり、愛によって主イエスに結ばれ、また、イエス様に属する者となった人たちでしょう。パウロはその愛こそが教会の人々が歩むべき道で、その道を歩み続けることを勧めています。パウロはそういう歩みによって、皆が再び来られるイエス様の前に立つことができると教えたのでしょう。かつて人間の赤ちゃんとなって来られ、愛の掟を授けられたイエス様、そして十字架上でその愛を全うされたイエス様が、再び来られるとき、別の秤で人を量るはずがありません。ですから、わたしたちもこの愛の務めを果たすべきで、それによってイエス様の再臨の日、身を起して頭を上げることができるし、その前に立つこともできるのです。その日まで、わたしたちは自らがその愛の務めを果たすにふさわしい者となることを祈り求めながら、目を覚まして愛の道を歩み続けるべきです。また、これこそが今日から始まる待降節の過ごし方で、いつか必ず再び来られるイエス様との再会のための準備でもあると思います。さて、今年も教会の庭には馬小屋が設置されました。その中には、今は何もありません。そこで、わたしは考えてみました。「その馬小屋に、自分は入る気があるだろうか。」と。もし、イエス様を待ち望んでいると言いながら、その馬小屋に入りたくないならば、それは大変なことでしょう。もし、イエス様の誕生を準備していると言いながらも、その弱いイエス様を抱えるための心を整えようとしないならば、それも大変なことです。その貧しい馬小屋に入るためには、自分はもっと小さくて低くならなければならないし、その弱いイエス様を抱えるためには、暖かくて柔らかな愛の心を整えなければなりません。これからの待降節の間、そういう準備ができるようお祈り致します

/神父様のお説教ふりがな付き  しばらくお待ちください。

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