今日は典礼暦による教会の最後の主日です。教会は、毎年この日を「王であるキリスト」と言い、イエス様に永遠の王権があることを告白します。その王権については、今日の第1朗読も語っていますが、メシアを意味する「人の子」という人物、すなわち、イエス様は、神様から権威、威光、王権を受けられました。それは、イエス様が神様の意向に従い、十字架上で神様の慈しみと愛による救いを全うされたから授けられたものです。その王権は神様からのものなので、諸国、諸族、諸言語の民がイエス様に仕え、その支配権と統治はとこしえに続くはずです。

今日の福音で、ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と聞きました。そこでイエス様は、その話が彼の考えからのものなのか、それともほかの人たちから聞いたことなのかを確かめられました。それを聞いたピラトは、自分はユダヤ人ではない、つまり、それは自分の考えでも信仰でもないことをはっきりと表わしたうえで、イエス様が何をなさったのかを尋ねました。そこでイエス様は、ご自分の国はこの世には属していないことを明確にされましたが、ピラトはイエス様の口から直接に「私はそうだ」という言葉を聞きたかったでしょう。それで、もう一度「それでは、やはり王なのか」と聞いたわけです。それに対してイエス様は、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と言われました。そして続いて、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と、ご自分の使命についておっしゃいました。それは、永遠の真理である神様のみ言葉を宣べ伝えることと、その御言葉に従う人たちを、ご自分の国に導くことでしょう。イエス様はその大事な使命を十字架の死によって全うされ、その十字架から神様の慈しみと愛を見つめる人たちを、神様の一つの民として集められたのです。それは、ヨハネの福音の「良き羊飼い」の箇所でも見られますが、イエス様は良き羊飼いとして、ご自分の声に耳を傾ける羊たちを一つの群れとして導いてくださる方なのです。そう考えると、やはり、イエス様は「ご自分の命を授け、与えられる真の祭司、神様のみ言葉とお望みを教えられた真の預言者、愛と慈しみで羊たちを導き、治められる真の王である」でしょう。

今日の第2朗読で、ヨハネは「世の終わりの日」のことを語りながら、イエス様の血によって罪から解放された人たちが、イエス様の支配権を共にし、また、神様に仕える祭司となると伝えています。ヨハネの黙示録によると、その救われた人たちには神様とイエス様の栄光を賛美する資格が与えられるが、一方、イエス様を突き刺した者どもは嘆き悲しむようになります。黙示というものは、いつの時代のあらゆるところであっても当てはまるので、救われた人たちや嘆き悲しむ人たちに関する今日のみ言葉も、ただイエス様の時代の人たちのことだけを指しているのではありません。言い換えれば、誰でも自分をへりくだって、神様の慈しみと愛に立ち返り、その慈しみと愛を実践する人には永遠の救いと命が与えられます。しかし、どんな形でもイエス様の教えと愛の掟に背く人たちは、あたかもイエス様を突き刺した者のように扱われ、彼らには永遠の悲しみと死が与えられるのです。これがいわゆる「最後の審判」で、その裁きを行うのは永遠の王であるイエス様ご自身なのです。そして、その時、イエス様の国ははっきりと現わされ、選ばれた人々は王であるイエス様によって、その国の国民として迎え入れられるはずです。そういうわけで、今日の福音でイエス様は「わたしの国はこの世には属していない。」とおっしゃったのです。

では、その国に入れる人たちはどんな人たちでしょうか。イエス様はかつて、ある山の上でその人たちについて教えられました。その人たちは「心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々、イエス様のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々」で、イエス様はその人たちの王なのです。イエス様は「その人々は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と公に宣言されました。それは世の中での苦しみや悲しみ、痛みや悩み、不幸などについての慰めの言葉ではありません。むしろ、どんな状況の中でも、イエス様の愛の教えと掟を守り、それに従う人たちに授けられる祝福なのです。わたしたちは皆、その日のためにこの信仰の道を歩みながら、イエス様が教えてくださった愛の掟を大事にし、それを実践しているわけです。わたしたちが忠実にイエス様の教えと掟に従って生きるならば、永遠の王であるイエス様は私たちにもふさわしい賜物を与えてくださるでしょう。

ところで、今日ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ね、自分はイエス様と何のかかわりもないことを見せようとしましたが、結局十字架のイエス様の頭の上に、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを付けることによって、その王権を認めることになりました。きっと彼は、その罪状書きでイエス様の死の責任から逃れられると思ったでしょう。しかし、イエス様の国はこの世には属していない国で、イエス様はただ、この世の中で最も弱い人たち、様々な理由で苦しんでいる人たちの王なのです。ですから、王であるイエス様の道を共に歩もうとしている私たちも、そのような人たちの仲間とならなければなりません。それこそが教会の道でしょう。これからもみんなが一つの体一つの心となって、イエス様と共に真の王の道を歩み続けることができるよう、お祈り致します。

/神父様のお説教ふりがな付き  

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