今日は聖家族の祝日で、ナザレの家族の聖性を思い起こしながら、信仰のある私たちの家族もその聖家族に倣って、聖なる家族として生きていくことができるように祈り求める日でもあります。ナザレのその貧しい家族が聖家族と呼ばれるのは、その中にイエス様がおられたからでしょう。イエス様は神様の独り子でありながらも、その栄光にとどまらず、罪と死の影の中でさまよっているすべての人を救うための御父の意向に従われました。そして、聖霊によってマリアの胎内に宿され、その貧しい夫婦の息子としてお生まれになったのです。しかし、人となられた後でも、イエス様は聖霊の交わりの中で常に御父と一致しておられ、イエス様はいつも御父のみ旨にかなう道を歩まれました。言い換えれば、イエス様は聖霊を通していつも御父と共におられたわけです。そう考えたら、イエス様の居場所は、もうイエス様のところだけではなく、三位一体の神様のところだったでしょう。

今日の福音で、十二歳となった少年イエス様はマリアとヨセフと一緒にエルサレムへ行き、毎年行われていた過越祭に与られました。ところが、その過越祭が終わった後、少年イエス様は一人でエルサレムに残っておられました。マリアとヨセフはそれに気づかず、一日分の道のりを行って、ようやくイエス様がいないことがわかったわけです。それから二人は再びその一日分の道のりをたどりながら神殿に戻って来て、三日後ついにイエス様を見つけました。ところが、その時少年イエス様は、まるで、何もなかったかのように、神殿で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしながら、その話を聞いていた人々を驚かせておられたのです。そこで、マリアは、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と言ったでしょう。それに対してイエス様は、「どうして私を捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と答えられましたが、両親はその意味が分からなかったそうです。その後、イエス様は両親と一緒にナザレに帰り、二人に仕えてお暮らしになりました。イエス様は知恵が増し、背丈が伸び、神様と人とに愛されたと、福音は記しています。

今日の福音を黙想しながら、一番先に信者の皆さんと分かち合いたいのは、過越祭のことです。そもそも過越祭という祭りとは、イスラエルが神様の民となったことを記念するもので、神様との契約を更新するものでもあります。ですので、イスラエルの成人男性だったら誰でも毎年義務的に参加しなければならない最も大事なお祭りなのです。ところが、今日の福音は、イエス様の「両親は祭りの習慣に従って都に上った。」と語り、その大事な祭りがもはや慣習、いわゆる、年間行事となってしまったことを示しています。エジプトで行われた世界で初めの過越祭で、イスラエルは、小羊、或いは、小山羊をいけにえとし、その血によってその民は救われました。そのため、毎年同じことを行いながら、神様の教えや掟に従う民となることを約束してきたのです。しかし、長い年月の間、その祭りはただの慣習となり、イスラエルはその掟や教えに従う民ではなく、慣習の様々な規則に従う者どもとなったわけです。みんなその祭りには与りましたが、それが終わってからは、神様ではなく世の中で生き残るための様々な浅はかなルールに従い、もはや、神様のところには誰もいなくなったでしょう。

そこでイエス様は、その愚かで憐れな民のためのしるしとなるために神殿に留まり、マリアとヨセフが再び神様の家にまで戻ってくるように導かれたのです。彼らは神殿で少年イエス様を見つけましたが、その時イエス様は学者たちの真ん中に座り、彼らと話し合っておられました。それは弟子たちに囲まれている先生のようにも見えますが、イエス様はその姿を通して、神様の声に耳を傾けている民の姿を見せられたのです。そのイエス様の姿を見て驚きと心配の声をかけたマリアにイエス様は、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われ、神様と契約を結んだ民の真の居場所がどこなのかを教えられました。人が神様のみ旨を調べ、また、その意向に従おうとするなら、そこに神様はおられ、その人は神様の民の真の居場所にいることになるのです。こうして、イエス様は神殿で、祭りの慣習に従う古い契約の更新ではなく、新しい契約を前もって示されたのです。特に、イエス様はご自分の死と復活の現場におられなかったヨセフのために、復活のしるしを見せてくださったかのようにも見えます。ヨセフにとって、それは何と素晴らしい賜物だったでしょう。マリアとヨセフはその神殿で、新しい契約の民の初穂となる栄光をいただいたと思います。わたしたちもその新しい契約の民として招かれ、その民に加えられました。そして、その契約のお祭りであるミサに与りながら、イエス様の愛を学び、その愛を実践するための力を得るのです。そのミサが慣習となり、しかも、規則や形式だけに従って行われる儀式となるのは、イエス様のお望みではないでしょう。イエス様の御体と御血にともに与る新しい契約の民として、心を込めてミサを捧げるべきだと思います。

さて、普通、聖家族は「ナザレの聖家族」と言われます。ナザレで神様はマリアとヨセフに声をかけ、ご自分の独り子の救いの御業を始められました。神様のお声に耳を傾け、それに従う人の所はどこでもナザレであり、その家族はすでにナザレの聖家族の道を歩んでいるのです。二俣川教会のすべての家族が、ナザレの聖家族が示している模範に倣って、聖なる家族となることができるよう、お祈り致します。

姜神父様のお説教ふりがな付き

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