近くのスーパーで買い物をして帰る時、教会までの上り坂で、あるおばあさんを見かける度、わたしはいつも悩みます。そのおばあさんは足が少し不自由な様子で、いつも買い物のための小さなカートを押しながら足を引きずるようにして、自宅とスーパーとの道を上ったり下ったりしておられるのです。その姿を見かける度に、わたしの悩みは始まります。「どうしようか。助けて差し上げるか。このわたしの気持ちを素直に言えば伝わるか。いや、もしかしたら、誤解されて疑われるかもしれないし。」などと思いを巡らすうちに、わたしはもうそのおばあさんを追い越し、その姿を後ろにしているのです。それでもわたしの悩みは終わらず、教会に着いても複雑な思いは続きます。信者の皆さんはどう思われますか。わたしにとって、これはとても大きなジレンマです。勿論、韓国ならすぐ手を差し伸べたはずですが、日本では自信が無く、躊躇してしまいます。もしわたしがそのカートを押して助けて差し上げたら、今度は、カートがないとおばあさんは歩けなくなって、逆におばあさんに迷惑をかけることになります。さて、どうすればよいのかと色々考える一方で、それに悩んでいる自分が、なんと愚かで哀れな人間なのかに気づき、とても恥ずかしくなります。

今日の福音で、ある律法の専門家はイエス様に、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのかを尋ねました。そこでイエス様は、聖書に書いてあることをどう読んでいるかを彼に問われました。それに対して彼はまるで、自分の知識を誇るかのように、「心と精神と力と思いを尽くして、神様を愛すること」と、「隣人を自分のように愛すること」だと答えました。すると、イエス様は彼に「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われました。でも、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか。」と質問したわけです。そこで、イエス様はあの有名な善いサマリア人の例え話を聞かせてくださり、最後に、その律法の専門家に、「行って、あなたも(そのサマリア人と)同じようにしなさい。」と言われたのです。

今日の例え話の中で、追いはぎに襲われて倒れていた人の所にやって来たのは全部で三人でしたが、その中で一番先に来た司祭とその後に来たレビ人は、そのかわいそうな人を見放して行ってしまいました。恐らく、彼らは自分たちの仕事上、その人に触れたら困ると思ったでしょう。その二人は、それぞれ神様の神殿で色々な清い捧げものを用意したり、ささげたりしていたので、その人のせいで自分たちの仕事ができなくなるのを心配したわけです。しかし、サマリア人は同じ所で足を止め、その半殺しにされている人を急いで治療し、自分のろばに載せて宿屋に行って、それから夜通し彼の世話をしたのです。そして、翌日になると、そのサマリア人は宿屋の主人にデナリオン銀貨二枚を渡してその人の世話を頼み、さらに、お金が足りなかったら、帰りがけに払うことを約束しました。きっと彼はその約束通りに、再びその宿屋に訪ねてきたはずです。それは、お金を払うためだけではなく、彼はそのかわいそうな人を心配していたに違いないと思うからです。

この三人のことを話し終えられたイエス様は律法の専門家に、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問われました。彼は「その人を助けた人です。」と答えましたが、それは彼の本音のように聞こえます。彼は「サマリア人」という言葉すら、自分の口にしたくなかったのです。それほど、彼は律法に拘っていて、その律法に基づいて人を義人と罪人とに分け、また、差別したでしょう。しかも、彼は元々同胞であったサマリア人への憎しみに囚われていたのです。きっと彼は、自分たちのような律法主義者たちの礼拝こそが、神様の御心に適う真の礼拝だと思っていたはずです。でも、律法とそれに基づいた礼拝のために、苦しんでいる人から目をそらした司祭やレビ人とともに捧げる礼拝が、神様を喜ばせるはずがありません。

イエス様はこの例え話を通して、そんな考え方の愚かさを明らかにしつつ、神様が望まれる真の礼拝とは、律法に沿った完璧な儀式ではなく、愛を実践することであることをはっきりと示されました。事実、イエス様は今日の第二朗読に書いているように、罪人を救うために来られ、ご自分の命を捧げて、罪で倒れている人を癒し、その罪のせいで苦しんでいる万物を神様と和解させてくださったのです。言い換えれば、イエス様は十字架上の死をもって、すべての罪人の隣人となってくださったわけです。そのイエス様の十字架上の死こそが、一番完璧な礼拝であるのは言うまでもないでしょう。わたしたちはその十字架上の完璧な礼拝を記念し、それに与っている人たちで、今日もそれを記念するためにここに集まっているわけです。今日の第一朗読で、モーセは「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるから、それを行うことができる。」と語りましたが、その御言葉であるイエス様の愛は、十字架のしるしによってわたしたちの体全体に刻まれています。そしてイエス様は、今日もわたしたちの人生の上り坂や下り坂で、わたしたちの助けを待ちながら、わたしたちがその隣にいる人、すなわち、ご自分の隣人となってくれるのを望んでおられます。

信者の皆さんは、善いサマリア人を必要とする世界と、必要がないほど豊かな世界とのどちらが幸せな世界だと思われますか。それについてのイエス様の考えは明らかでしょう。聖なるエルサレムから様々な罪が満ち溢れるエリコまでの道、それはわたしたちの道でもあります。神様はその道の善いサマリア人としてわたしたちを選ばれ、また、今日もお遣わしになっています。その神様のお召しに答えて、これからも善いサマリア人として生きていくことができるようお祈りいたします。

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