今日の第一朗読はコへレトの御言葉ですが、わたしは初めてコへレトを読んだとき、少し驚きました。なぜなら、その御言葉によると、世の中のあらゆるものがすべて意味がなくて、空しいもののように見なされるからです。そこで、「なぜ、コヘレトの御言葉は、神様が造られたすべての良いものや様々な恵みと賜物、そして、それらを得るための知恵や知識、才能、また、労苦と悩みを、これほど空しいもののように語っているのか。」ということが気になりました。結論から申しますと、そのすべての良いものは人間の欲心や貪欲のせいで、そうなってしまうのでしょう。

今日の福音で、イエス様は群衆の一人から、「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と頼まれました。そこで、イエス様は先ず、ご自分は人々の裁判官や調停人ではないことをはっきりとおっしゃった後、さらに、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」と教えられました。イエス様はその理由として、人の命は財産によってどうすることもできないからだと言われ、それから、自分の命がどうなるかを知らず、貪欲に駆られたある金持ちの例え話をなさいました。それは、自分の畑から多くの作物を得た金持ちが、今までの財産や作物をしまっておいた小さな倉を建て直し、そこに自分のすべてのものを納めようとしました。そして、彼は自分自身に「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」と、誇らしげに言いました。しかし、神様は彼に、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」と言われ、結局、彼は自分のすべての財産だけでなく、命まで失うことになります。

以上がイエス様の今日の例え話の内容ですが、この例え話の結論として、イエス様は「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」と言われました。イエス様のこの結論によると、その金持ちは自分のためには富を積みましたが、神様のためには何も積まなかったことになります。その結果、彼は命まで失ってしまうことになったのでしょう。それでは、彼が神様のために積むべきだったのは、いったい何だったのでしょうか。果たして、彼が何をしたら、自分の命を守ることができたでしょうか。わたしは今日の福音を黙想しながら、彼に足りなかったことを、次の三つにまとめ、それについて信者の皆さんと分かち合いたいと思います。

先ずは感謝の心です。今日の例え話は、「ある金持ちの畑が豊作だった。」という文章から始まります。言い換えれば、金持ちは畑から豊かな穀物を得ていたということでしょう。彼の畑には先ず、多くの僕たち、或いは、他の農夫たちの汗と労働によって種が蒔かれていたに違いありません。そして、それからは、イエス様がかつて用いた他の例え話のように、その土に授けられた神様の力と恵みによってその種は成長し、その後、収穫の時が来て、多くの人たちが働いたので、金持ちは豊かな穀物を収めることができたはずです。しかし、彼はその多くの人たちの努力、また、蒔かれた種や畑の働き、そして、それらすべてを恵んでくださった神様に向かって、一言の感謝の祈りも捧げませんでした。むしろ、彼はその新しい穀物や今まで積んできた財産をどうするかにだけ心を奪われていました。ここで彼に欠けていたもう一つのことが見つかります。それは隣人への愛です。多くの穀物や財産を納めるために、今までの倉が小さいと気づいた彼は、新しくてもっと大きな倉を建てることにしました。そして、そんな自分を誇るかのように、「これから何年間も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」と豪語するのです。もう彼の目には隣人など見えませんでした。彼の計画はすべて自分のためで、貧しい人や苦しんでいる人のための小さな倉など、自分の心の中にさえまったく建てようともしなかったでしょう。最後の一つは、今日の例え話の金持ちには謙遜が足りず、神様より自分が偉大なもののように振る舞ったことです。それは先程引用した彼の独り言からも分かりますが、彼は自分自身が命の主となったかのように思い上がったのです。そこで、神様が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」と言われました。これは神様ご自身が真の命の主であり、人間がそれを忘れたら、もうすべての意味は無くなることを示す御言葉でしょう。

今日の第二朗読で、使徒パウロは「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」と勧めています。その地上的なものとは、様々な悪い行いといろんな貪欲や欲望で、使徒はそれを偶像礼拝であり、古い人たちの行いだと断言しました。そして、それを脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けるようにと勧めました。その新しい人とは、言うまでもなくキリスト・イエス様でしょう。実にイエス様は二匹の魚と五つのパンに感謝し、愛を持ってすべてを五千人に与えてくださいました。また、最後の晩さんでは命のパンと救いの杯を与えられ、十字架上では御父である神様にみ旨に従って、ご自分の命さえ惜しまず捧げられました。わたしたちが新しい人であるイエス様を身に着けるのは、そのイエス様のみ心、すなわち、神様に感謝する心や、神様と隣人を愛する心、また、謙遜な心を学ぶことに違いありません。そして、今日もそのイエス様を身に着けるためにここに集まっているのです。わたしたちがここで学んだイエス様のように生き、神様から頂いた様々な富と恵みを分かち合うならば、わたしたちは皆、神様にまことに豊かな者として認められるでしょう。このミサの中でわたしたちがそうなれるよう、お祈りいたします

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