ミサの中で、司祭は「主の祈り」に続く祈りを唱えた後、「平和を願う祈り」を唱えます。それは「主イエス・キリスト。あなたは使徒に仰せになりました。わたしは平和を残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしたちの罪ではなく、教会の信仰を顧み、お言葉の通り、教会に平和と一致をお与えください。」という祈りです。韓国の神学校で聞いたことですが、昔は、この祈りの中で、「わたしたちの罪ではなく」という部分はちょっと速く唱え、「教会の信仰を顧み」という部分はゆっくり唱えるという決まりがあったようです。それは、イエス様がわたしたちの罪にできるだけ心をとめられず、むしろ、教会の信仰をじっくりと顧みられるようにと願うためだったそうです。それを考えたら、イエス様が使徒たちや私たちに与えてくださる平和は、私たちが罪の中にいる限りは与えられず、信仰を通してのみ得られるものであることが分かります。その信仰とは、勿論、イエス様がなさった救いの御業に関することで、イエス様が十字架上でご自分の命をささげられ、わたしたちの罪を贖ってくださったことに対する信仰なのです。そこで、わたしたちもこの世の中の様々な罪や誘惑と戦いながら、イエス様が成し遂げられた真の平和をもたらし、また、宣べ伝えるために努めているわけです。

今日の福音で、イエス様は「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と言われました。その火とは、いわゆる聖霊の火で、イエス様はその火を通して、あらゆる罪と悪とを燃やし、それらに染まっている世の中を洗い清められたわけです。しかし、その聖霊の火を投ずるのは、決して簡単なことではありませんでした。なぜなら、それはイエス様が十字架の上で、自ら命をささげることによってのみ、実現することができるからです。その死をひかえておられたイエス様の悩みと苦しみは何と深かったことでしょう。イエス様はその十字架の苦しみを「洗礼」という言葉で表されたうえで、「それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。」と言われました。その「洗礼」という言葉から、イエス様の並々ならぬ覚悟が感じられるでしょう。しかし、ある意味で、その洗礼はただイエス様だけが受けるべきものではなく、それは、イエス様に従う信仰あるすべての人にも当てはまる「洗礼」であると思います。イエス様は「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」という御言葉で、それを現わされたのです。

十字架上の死と復活を通して、真の平和を成し遂げられたイエス様が、「むしろ分裂をもたらすために来た。」とおっしゃったのはどういうわけでしょうか。実は、イエス様がおっしゃった「分裂」とは、信仰のある人たちが受けねばならない「いろいろな形の反対や苦しみ」を表す言葉だと言えます。つまり、わたしたちはその反対や苦しみを通して、イエス様が「わたしには受けねばならない洗礼がある。」とおっしゃったのです。その洗礼、つまり、イエス様の十字架上の死に与れば、イエス様の平和にも与ることができるということです。では、なぜわたしたち信仰のある人たちは、そういう反対や苦しみを受けねばならないのでしょうか。それは、イエス様が証しされた「神様の慈しみと愛」、また、それによって成し遂げられた「救いと平和」が、世に属している人たちにとって、我慢できない邪魔なものだからです。

実に、わたしたちが生きているこの世界は、ありとあらゆる形の力を持っている人たちが治めています。彼らは皆、口では「平和」を叫んでいますが、むしろ、世界各地で紛争や戦争が起きているのが現実です。物理的な戦いばかりか、小さな集団の中でも力の論理による様々な差別や葛藤、いじめなどがあって、弱い立場にある人たちは苦しみと涙のあまりに、自ら命を諦める場合もあります。でも、それはただ今の時代に始まったわけではなく、人間が神様に背いて罪を犯してからずっと同じことがくり返されてきました。そこで、イエス様は十字架上の死と復活を通して、神様の慈しみと愛による救いの計画を完成され、真の平和は、その神様の慈しみと愛によらなければ、決して成されないことを示されたわけです。言い換えれば、イエス様はご自分の十字架を通して、世の中のありとあらゆる力に打ち勝ち、神様の慈しみと愛の勝利をあらわにされたのです。そこで、使徒パウロは今日の第二朗読を通して、信仰のある人たちに「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」と勧め、また、励ましました。世の中で偉い人と認められていたパウロでしたが、彼はイエス様が無力に十字架に負けたのではなく、むしろ、慈しみと愛によって十字架に勝ったことを悟っておられたでしょう。彼にとって、イエス様の十字架による平和こそが、自分が追い求めなければならない唯一で永遠の平和だったに違いありません。わたしたちが築くべき平和も、イエス様の平和でなければなりません。互いに愛し合いながら、相手の十字架を共に担うこと、また、互いに励まし合い、支え合うことこそが、イエス様から与えられた平和を守るわたしたちの真の姿なのです。これからもその姿を保ちながら、この信仰の道を共に歩んでまいりましょう.。

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