姜真求神父 四旬節第5主日ミサの説教
新しい春を迎えていますが、1月からの新型コロナウイルス感染症の恐怖は、もはや全世界を覆っています。毎日、ニュースを通して聞こえてくる情報は、ほとんど、新型コロナウイルスに関連することばかりで、季節は春になるというのに、気持ちはまだ寒い冬の中で止まっているような気がします。どうか、神様の慈しみと憐れみによって、この事態が一日でも早く終息できるようにと願います。
教皇様は今月19日、特別なメッセージを発信されました。それは、私たちは信仰を持つ者として、この病気に対して祈りと回心の心を持って戦わねばならないこと、そして、教皇様が与えられる全免償についての教令です。確かに、私達はどんな状況でも神様により頼み、また、祈らねばなりません。特に、今の状況でそれはもっと求められます。なぜなら、祈りにおいてこそ、私達はこの病気と闘う力を得、或は、一人一人の病人達の戦いに霊的に与れるからです。併せて、教皇様は全免償を授けることを決定されました。全免償とは、普通の赦しの秘跡の罪の赦しとは別に、全ての罪と罰まで赦されることなのです。勿論これは特別な恵みで、いつも得られるものではありません。今は先ず、この病気で苦しんでいる信者達がその苦痛を神様に捧げて、メディアを通してミサに与ったり、或いは、ロザリオとか十字架の道行き、或は、使徒信条とか主の祈りなどマリア様に向かう祈りを捧げたりすることによって、その全免償をいただけます。次に、この新型コロナウイルスで苦しむ人々を世話する医療従事者達とその家族も、同じ祈りをささげて全免償を受けることができます。最後は、この病気の終息と苦しんでいる人達に向かう慰め、また、亡くなられた方々の救いを願いながら、同じ祈りを捧げる全ての信者さんにも全免償が授けられます。教皇様の今度の特別教令について長く説明しましたが、とにかく、全免償だけを得ようとするよりも、今の事態の厳しさを直視し、全ての信者さんが一つになって、神様の力を願いながら共に戦うことは大事なことだと思います。
神様は人の苦しみや死を望まれない方です。全ての命の与え主である方が、その命の終末を望むのはあり得ないことでしょう。むしろ、神様は天地万物を創造されて、それぞれのものに命を与えて下さいました。それから神様はご自身に模って人間を作り、自ら息を吹き入れられて、人間が神様の命に与るようにして下さったのです。しかし、人間は自分の高慢な心を抑えず、神様に勝る者になろうとして、神様の命令に背いて罪を犯してしまいました。神様はそのかわいそうな裸の人間、つまり、自分の卑しさに気づいて恥じていた人間の為に、皮で衣を作って着せて下さいました。そして、神様は人間をエデンから追い出す際に、彼らが命の木の実を取って食べることのないように、ケルビムや煌めく剣の炎を置かれ、彼らを遮られました。でも、ご自身の懐から追い出されて遠ざかった彼らの背後で、神様の御心はどれほど痛かったでしょうか。
私たちはその神様の御心を今日の福音の中で確認することができます。今日、イエス様は愛したラザロの死の前で涙を流されました。その涙こそ、神様の痛み、また、悲しみの証に違いないでしょう。先ず、私はラザロと二人の姉妹について話し合いたいと思います。ラザロは既にある病を患っていましたが、彼の二人の姉妹の中でマリアは、なぜか分かりませんが、罪を重ねながら生活していたようです。彼女はイエス様の足を涙で洗って自分の髪の毛で拭き、高級なオリーブ油を塗って差し上げました。イエス様はその行動を見つめて、彼女の罪を許してくださいました。また、マルタはいつも忙しい人でした。きっと、彼女は苦しんでいたラザロやマリアを世話するにも時間が足りなかったはずです。ラザロのことをイエス様に知らせたのもマルタだったし、福音の他の場面では、イエス様の一行を迎え入れて、彼らを世話した人もマルタでした。その時、マリアはイエス様の足元でイエス様のみ言葉を聞いていましたが、マルタは自分のことや周りの人々のことで我を失うほど忙しく働きました。そのような三人をイエス様は深く愛しておられました。特に、ラザロに対してはとても深い憐れみと愛を持っておられたようです。
しかし、ついにラザロが死んでしまいました。ところが、イエス様は彼に死が迫っているのをご存じだったのに、すぐに彼の所には行かれませんでした。彼が亡くなってから、残っていたマルタとマリアの所にいらっしゃったのです。そして、ラザロの死の前でも依然として忙しさに包まれているマルタと、ご自身の前で涙をしながら自らを責めていたマリアの同じ姿をご覧になりました。また、多くの人々の涙をご覧になって、イエス様は愛しておられたラザロの墓で、熱い涙を流されたのです。イエス様は彼らの姿を見つめながら、死の前で何もできない人間の弱さを深く感じられたでしょう。あるいは、世の中の様々な苦しみの前でも、自分たちのことだけに拘って、依然として変わらない人間の様子をも見つめておられたと思います。イエス様は彼らに向かって次のようにお叫びになりました。「ラザロ、出て来なさい。」と。すると、墓からラザロが出てきましたが、彼の手と足は布で巻かれていて、また、顔は覆いで包まれていました。イエス様は人々に「ほどいてやって、行かせなさい。」と言われ、彼を完全に蘇らせました。そして、多くの人々がイエス様を信じるようになったのです。
私は「ラザロ、出てきなさい。」という叫びと「ほどいてやって、行かせなさい。」という言葉は、ただ、ラザロだけに向かうものではなく、今の世の中に生きている私達に向かう叫びだと思います。事実、私達は多くの場合、この世の中の様々のことに拘り、我を失って、まるで死んだように生きているかもしれません。神様から離れていても、全然気づかないままでしょう。併せて、自分の価値観や基準、やり方などで他人を強いたり、彼らの人格を無視したりする場合もあります。これは個人との関係だけではなく、国と国との関係も同様だと思います。神様はイエス様を通して、昔、遮っておかれた命の木の実を与えて下さいました。人間が自ら取れない実を、神様はラザロにも与えて下さり、また、私達にも与えて下さっています。まさに、その命の木とは、イエス様の愛の十字架に表されているのです。私たちはその十字架の木のみであるイエス様の御体と御血を命の糧と救いの飲み物としていただいているのです。この悲しい四旬節を過ごしながら、一人一人が改めて回心し、皆がイエス様の愛に立ち返ることによって、その命の木の実を味わうことができるのです。神様は、それを私たちに望んでおられると思います。
慈しみ深い神様が愛をもって私たちを憐れんで下さいますように。アーメン。
カトリック二俣川教会主任司祭 ヤコブ姜 真求
☆彡フリガナ付きはこちらをクリックしてください。(Please click here for the FURIGANA version) 2020年 2020年3月29日姜神父様のお説教ふりがな付き