今年初めから全世界を脅している新型コロナウイルスの正体や治療方法はまだ見つからないようですが、社会の雰囲気は徐々に平常の様子を取り戻そうとしているようです。それには色々な訳がありますが、その中でも経済的な心配が一番大きく作用しているようです。今の時代の生活はお金がなければ持続できない形で、働かなければ一日も過ごすことができないし、その心配が原因で一人一人がパニック状態になり、それで社会全体が大きな混乱に陥る可能性も無視できないことでしょう。とにかく、病気との戦いのさなかで、今度は衣食住の基本的な生活を守るための戦いが始まるような気がします。このような状況の中で、信者の皆さんの信仰や祈り、また、健全な生活や分かち合いの実践などは、とても大事なことだと思います。神様が私たちを導かれ、私たちが信仰に基づいて愛の生活を続けることができるよう、お祈りいたします。

今日は年間第12主日です。正直に申し上げると、先週までの毎週の日曜日は四旬節から続いた特別な日曜日でしたので、説教を書くには比較的優しかったです。毎週のテーマも決まっているし、それに合わせて現実の問題や信仰の道などを記すことは、あまり難しくありませんでした。しかし、年間主日の説教は、まるで、霧の中で足を運ぶような感じです。ですから、どういう風にミサの御言葉を説いたらいいのかということで、もっと深刻な気持ちになります。それで感じるのは、私達の信仰の道は目に見えないものだから、むしろ、そういうわけでもっと強く信じながら歩まねばならない道ではないかということです。神様とイエス様がどれほど私達を愛しておられるかを黙想しながら、その愛から生きていく力を得ること、また、その愛を守ること、それが年間主日を過ごす私達の姿勢なのだと思います。

今日の福音で、イエス様は私たち人間の価値について教えられました。それを一言で纏めたら、「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」と言えます。イエス様のこの言葉は、神様はご自分を信じている全ての人を守って下さるということを教え、また、その信仰をもっと強める為の言葉なのです。言い換えれば、神様を強く信じている人は神様によって守られるので、どんな状況に遭っても恐れることなく、その信仰を守りなさいと言うことです。実際、聖霊降臨によって建てられた地上の教会は、その誕生のときから様々な迫害を受けました。使徒達と初期の信者さん達は国の権力者達の迫害、色々な宗教からの反対、群衆の不信仰や嘲り、侮辱や暴力に合って、それらと戦わねばなりませんでした。また、自分の内面からの疑いや教会の仲間からの不満も乗り越えねばなりませんでした。しかし、彼らは自分達を導いてくださる聖霊の力により頼みつつ、イエス様の御言葉を信じて、愛の生活を続けて行きました。彼らはイエス様から聞いたことを明るみで言い、耳打ちされたことを公に言い広めました。言い換えれば、彼らは至る所で、イエス様の仲間、或は、イエス様の証人となったのです。確かに、彼らは今日の福音のイエス様のみ言葉通り、自分達が神様に愛されていることをはっきり信じていたでしょう。

生まれたばかりの教会の姿は、今日の第1朗読の内容と同様でした。今日の朗読で、エレミヤは自分を迫害している人たちを神様に告発しています。彼らは当時の権力者達で、その人達はエレミヤを通して知らされた神様の御言葉や指示に従うより、周りの国々や自分達の知恵によって国の危機を乗り越えようとしていました。事実、エレミヤの時代、イスラエルはますます弱くなり、実際には国の最後を迎えていたのです。その時代、エレミヤは神様による救いとか、勝利などを語るどころか、むしろ、異邦人に従わねばならないことやそれで救われることなどを神様の意向として言い広めました。その話が国の指導者達や群衆にとっては気に入る話であるはずがありませんでした。それで彼らはなんとしてもエレミヤを殺したかったのですが、その度ごとに神様はエレミヤを守ってくださり、国が敗亡した後もずっと彼と共にしてくださいました。エレミヤは悲しい時代の預言者でしたが、信仰のある人たちにとっては「どんな状況でも、神様に全てを任せる人」としての模範となったのです。また、真の救いとは物理的に楽な状況になることではなく、順境か逆境かにかかわらず、神様に従うことそのものであることを、私たちはエレミヤを通して悟れます。また、その「神様に従う」ということは「神様に従順となる」ということと同じであることも分かります。

それについて今日の第2朗読はアダムの罪とイエス様の救いの業とを比べながら、イエス様による救いの恵みの豊かさを語っています。つまり、アダムによる罪は世に死をもたらしましたが、イエス様によって、その罪と死は滅ぼされたということです。ところが、アダムは自分が神様より高くなろうとする高慢な心で、神様に逆らって罪を犯し、全ての人に罪とその実である死を味わわせてしまいました。しかし、イエス様は十字架の死に至るまで神様に従順となり、アダムの罪を贖われて死の支配からすべての人を救って下さいました。そのイエス様は神様の独り子でありながらも、人間を救う為に自ら人となられた方です。言い換えれば、神様は罪深い世と人とを救う為に、ご自分の独り子の従順による救いを示して下さったのです。そして、その救いの御業を通して、神様がどれほど世と人間とを愛される方であることかが明らかになったのです。併せて、使徒時代の教会から始まった全ての時代の教会は、人間に向かう神様の愛とその愛をもって世を救って下さったイエス様の福音を、明るみで公に宣べ伝えることを自分の務めとして果たしています。やはり、人はたくさんの雀よりもはるかにまさるもので、実際のことを話せば、私達人間は神様に模って造られたものなのです。だからこそ、教会はいつの時代、どんな状況に遭っても、命を守るために働かねばならないのです。

さて、世界は様々な理由で新型コロナウイルスから平常の生活へ立ち返ろうとしていますが、その中には軍事的な動きもあります。残念ながら韓国の状況もよくないようです。個人的な考えですが、神様からの真の平和が来たら、一番先に失業者となる人達は政治家や権力者ではないかという気がします。でも、現実では彼らが仕事を失う可能性はなさそうです。この厳しい病気の中で国々の間の緊張や対立は少し静まったような雰囲気でしたが、ちょっとだけの余裕が生じたかのような雰囲気になっているようです。なぜ、この世の中の権力はこれほど人気があるのかという疑問が起こるほどです。国々のそういう動きは社会の様々な分野にも、また、すべての人々にも悪影響を与えるはずです。

こういう状況の中で、真の王であるイエス様の私たちの価値についての教えを、改めて味わいたいと思います。イエス様は神様だけに全てを任せることを教え、十字架の死を通して神様の愛を示してくださいました。だから、信仰のある私たちもイエス様のように生きるべきだし、そういう生き方で、例え、様々な迫害や憎しみ、あざけりの的となっても、神様に愛される人であることをはっきり信じながら、福音宣教の活動や愛の生活を続いて行くべきです。それこそ、人を大事にしてくださる神様に応えることになると思います。そういうことを考えながら、このミサの中で人が尊重される世界を築くための力と知恵、また、恵みと勇気を祈り求めましょう。アーメン。

 

原文のPDFファイルはこちらをクリックしてください。⇒ 2020年6月21日姜神父様のお説教

☆ふりがな付きこちらをクリックしてください。(Please click here for the FURIGANA version)  ⇒ 2020年6月21日姜神父様のお説教ふりがな付き

☆彡新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り ⇒ COVID-19inoriB7