今日は復活節第2主日で、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様が定めた「神のいつくしみの主日」でもあります。今日の「聖書と典礼」にも書いてありますが、この主日は「神の愛に満ちた寛容さが特に輝き出る」復活節に神の慈しみをほめたたえるため定められた日です。今日の説教を準備しながら、わたしはなぜ聖ヨハネ・パウロ2世教皇様が、復活節第2主日を「神のいつくしみの主日」として定めたのかについて考えてみました。そして、自分なりに今日の福音からその解答を求めました。
今日の福音で、復活されたイエス様はご自分の弟子たちが集まっているところに2回にわたって来られ、彼らを励ましてくださいました。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の門に鍵をかけていましたが、イエス様はそこに来られ、彼らに平和のあいさつをなさいました。そして、ご自身が生きているのを証明なさるかのように、彼らに向かって息を吹きかけられましたが、それは、命の息吹である聖霊を授けるということでしょう。言い換えれば、彼らはユダヤ人への恐怖心やイエス様への不信、或いは、互いへの不信などに囚われて、まるで、死んだように隠れていたのです。そこで、イエス様は彼らに息吹を吹きかけてご自身が生きていることを証明し、更に、彼らにご自分の命を授けられました。その劇的な再会によって、弟子たちの恐怖心や不信感は喜びに変わったはずです。しかし、残念なことに、その喜びの現場にトマスはいませんでした。一体なぜ、彼はその大事なとき、他の弟子たちと一緒にいなかったのでしょうか。
それについて福音は詳しいことを語っていませんが、わたしはイエス様の次の言葉から、弟子たちの中で何が起きたかを考えてみました。復活されたイエス様が初めて来られた時、弟子たちに平和のあいさつをなさりながら、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われました。復活されたイエス様はなぜわざわざ罪の赦しについておっしゃったのでしょうか。恐らく、弟子たちはイエス様の受難と死に対して、互いに言い争ったかもしれません。事実、ユダの裏切りも衝撃的な事だったし、ペトロもイエス様を知らないとはっきり表明して、ある意味ではペトロも裏切ったとも言えます。そして、自分たちがイエス様を守れなかったことについても、互いにその責任を押しつけ合ったかもしれません。そんな弟子たちの中で、もはや「互いに愛し合いなさい。」というイエス様の掟は見いだせなかったはずです。むしろ、不信と分裂、憎しみと恨み、蔑みや嘲り、いじめなどが彼らの間に生じたに違いありません。それはトマスの話、すなわち、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」という酷い話からもある程度感じることができます。
しかし、八日後、再び弟子たちのところに来られたイエス様は、もう一度、弟子たちに平和のあいさつをなさいました。そして、そこに他の弟子たちと一緒にいたトマスの、その酷い要求をゆるされました。きっとその時、トマスはもちろん、他の弟子たちも自分たちの間で起こったことに気づき、もう一度、イエス様の弟子としての心を回復することとなったに違いありません。こうして、イエス様はご自分の死によって散らされた弟子たちを一つにして励ましてくださり、また、その平和の絆をもっと強くしてくださったのです。それができたのは、もちろんイエス様ご自身が弟子たちの目の前に現れたからかも知れません。しかし、そうでなくても信じることの大事さについて、イエス様は「わたしを見てから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と、はっきりおっしゃいました。その信仰とは、ただ、イエス様の復活についての信仰ではなく、イエス様のすべての教えと御業、特に、「互いに愛し合いなさい。」という掟の正しさに至るまでの信仰なのです。わたしたちはその信仰を証しするために召された人々で、あらゆる形でそれを実践すべきです。
神様の慈しみはどれほど深いでしょうか。今日の第一朗読で、群衆は多くの病人や汚れた霊に悩まされている人々を大通りに運び出しました。そこをペトロが通りかかるとき、彼の影だけでも病んでいる人たちに掛かることを望んだのでしょう。神様はその薄い影でさえ惜しまず施してくださる方なのです。それが神様の慈しみであるのが分かっているのに、共同体の中で自分の秤で他人をはかったり、無視したり、蔑んだり、虐めたりするのは、慈しみ深い神様にことごとく逆らうことと同じことです。神様の前で、人間はだれでも取るに足りないものですが、その人間に神様はご自分の独り子の命を授けてくださったからです。それを考えたら、他人を自分の価値観だけの秤ではかるのは、何と愚かで不敵なことでしょう。それは自分の心の器がそれほど小さいことをさらすことで、自分自身を笑いの種とするだけです。事実、わたしは度々、教会の中でそのように振る舞う様子を見て、とても残念で悲しい気持ちを覚えたりします。もちろん、わたし自身そのように振る舞う場合があることも正直自覚しています。しかし、自分がいかに賢くて合理的で、また、知識の豊富な人だとしても、他人を無視するのは教会の人としてふさわしくありません。むしろ、教会の人々は深い慈しみと憐れみをもって、平和を守り、弱い人を励まし、自らをへりくだる姿勢ですべての人を尊重すべきです。神のいつくしみの主日を過ごしながら、これからわたしたち皆が、慈しみ深い神様の子供として正しく生きることができるように、神様の恵みを祈り求めましょう。