今日は聖霊降臨の祭日で、教会の誕生日でもあります。イエス様はかつて、最後の晩さんの時、弟子たちのための弁護者であり、真理の霊である聖霊を送ることを約束してくださいました。それはご自分の受難と死によって不安と恐怖に包まれてしまう弟子たちを安心させ、また、彼らが成し遂げるべき使命を支えてくださるためだったのです。実際、イエス様が逮捕されてから弟子たちは、まるで芯を失ったようになり、一部の弟子たちは田舎へ逃げたり、また、残っていた弟子たちもユダヤ人を恐れ、自分たちのいる所の門に鍵をかけて過ごしたりしました。しかし、イエス様は復活され、田舎へ行った弟子たちに現れて彼らを悟らせ、残っている仲間たちのところへ立ち返るようにしてくださいました。また、家の門に鍵をかけたまま、不安と絶望、恐怖に包まれて隠れていた弟子たちの目の前に、どんな妨げも受けずに現れて、彼らに平和を授け、更に、命の息吹を吹きかけられました。こうして、イエス様は弟子たちの不安を平和に、絶望を希望に、恐怖を勇気に変えてくださったのです。そして、四十日に渡って彼らに現れ、彼らが聖霊の降臨の準備をするようにと導いてくださいました。勿論、弟子たちはまだ、自分たちの未来についての心配や不安をも抱いていたに違いありません。しかし今日、イエス様はその弟子たちに約束された「高い所からの力」、つまり、聖霊を送ってくださったのです。その聖霊をいただいた弟子たちは、もはや弟子ではなく「使徒」となり、イエス様を通して示された神様の救いの御業の証人としてイエス様の福音を宣べ伝え、至る所で教会をたてたのです。そういう訳で、今日は教会の誕生日と言われるのです。
今日の福音で、受難を控えておられたイエス様は聖霊についておっしゃいました。イエス様は、その聖霊が永遠に弟子たちと一緒におられ、イエス様ご自身の教えを悟らせてくださると言われました。ところが、福音の中でイエス様は二回にわたって、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と言われ、更に、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」ともおっしゃいました。この話の意味は何でしょうか。それは、イエス様の掟と御言葉を守るためには、聖霊をいただき、素直な心で聖霊に従わねばならないということでしょう。言い換えれば、聖霊に従わないと、イエス様の教えを悟ることや、イエス様の掟と御言葉を守ることもできなくなり、そうなると、イエス様を愛しているとは言えないということです。そこで、イエス様は「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」とも言われたわけです。確かに、イエス様を愛さない人やイエス様の教えと御言葉、また、愛し合いなさいと言う掟を守らない人を、信仰のある人だとは言えないでしょう。このように、今日の福音でイエス様は、聖霊と信仰との関係性をはっきりと示し、また、わたしたちが聖霊によってご自分との愛の絆に与れることも教えてくださったのです。
イエス様とのその愛の絆に与る人たちについては、今日の第二朗読にも記されていますが、彼らはキリストに属し、その霊の支配下にいて、その聖霊に従い、また、純粋な心で導かれます。使徒パウロはその人こそが神様の子なのだと言い、更に、キリストと共に神様の共同の相続人となるとも言いました。その人たちが受け継ぐ相続とは、言うまでもなく神様の永遠の命でしょう。実に、神様がご自分の独り子のイエス様を世にお遣わしになったのは、世を滅ぼすためではなく、イエス様を通して世を救うためでした。慈しみ深い神様が望まれたのは、イエス様を信じて、イエス様の教えと御言葉を受け入れ、また、イエス様の掟を守る人は誰でも、復活されたイエス様の永遠の命に与ることだったのです。その神様からの救いの恵みをうけるには、どんな壁もありません。それについては今日の第一朗読にも書いてありますが、炎のような舌の形で弟子たちに降り注がれた聖霊は、彼らを隠れ家から公へと連れ出し、イエス様が成し遂げられた神様の救いの御業を宣べ伝えるよう導かれたのです。そこには五旬節の祭りのためにあらゆる地域や国から多くの人たちが集まっていましたが、彼らは皆、自分たちの地域や国の言葉でその救いの福音を聞き、信仰の道に導かれました。その救いの恵みは今の時代のわたしたちにも与えられ、わたしたちは水と聖霊による洗礼を受け、主の晩さんの記念であるこのミサに与り、その永遠の命の糧をいただきながら、神様の国への道を歩んでいるわけです。ですから、わたしたちも今までの自分を捨て、互いに愛し合うことによって、イエス様の教えと御言葉と掟を守るべきだと思います。また、わたしたちの信仰を世に向かって宣べ伝え、証しし、多くの人たちを信仰の道に導く人とならなければならないと思います。そのために、聖霊の恵みを祈り求めながら、その聖霊に従って生きていきたいと思います。
さて、日本の昔話に、「おぶさりたい」というお話があります。山里に住んでいた三人兄弟「太郎、二郎、三郎」に現れたお化けの話です。夜中の山道で「おぶさりたいよう、抱かさりたいなあ」と言いながら近寄ってくるお化けに会った太郎は怖くて逃げ去り、その兄をあざ笑った二郎も結局そのお化けの正体を明かせませんでした。しかし、三郎は勇気をもってそのお化けと向き合い、それをおぶって家に帰りました。でも、そのお化けを降ろすことができず、最後に家の大黒柱にぶつけたとたん、お化けから多くの大判小判が散らばって、三人兄弟は代々金持ちとなったというお話です。聖霊はお化けではありませんが、聖霊も私たちにおんぶされたがっておられるかもしれません。私たちが聖霊をおんぶするには勇気が必要です。その勇気とは古い自分を捨てる勇気です。私たちが自分の古い思い、言葉、行いを捨て、愛の聖霊をおぶったら、聖霊は想像以上の賜物を与えて下さるでしょう。これからも信者の皆さんが愛の聖霊に従うことができるようお祈りいたします