教会はミサと言われる聖体の秘跡や他の六つの秘跡を始め、様々な形の典礼を通して、信者の皆さんの信仰を深め、また、神様からの恵みをもっと豊かに頂くことができるように努めています。例えば、十字架の道行きやロザリオの祈り、或いは、毎日決まっている時間にささげる教会の祈りなども、典礼行為として認められます。そういった種々の典礼を通して、わたしたちは神様ともっと親しくなり、神様との人格的な出会いの機会も設けることができるのです。
そんな豊かな典礼の中に、「聖体賛美式」というものがあり、韓国の神学校では、月初めの木曜日の夜、約一時間半をかけてこの儀式を行います。この典礼の間、司祭は祭壇の上にオステンソリウムという特別な聖具を置き、そこにご聖体を入れて信者の皆さんがその聖体を仰ぎ見る(敬拝する)ことができるようにします。実は、この新型コロナウイルスが始まる前は、わたしたちの教会も、毎月第一木曜日の夜、聖体賛美式を行っていました。勿論、参列者は少なかったですが、一時間の間、イエス様の御体であるご聖体をじっくりと見つめながら、神様に感謝と賛美の祈りをささげ、また、新しい月をイエス様と共に始めることができました。この典礼の恵みは、何といっても「ご聖体との直接対面」だと言えます。使徒パウロが讃えているように、イエス様は「目に見える形で現れた神様ご自身」であり、更に、ご聖体の形でわたしたちの永遠の命の糧となってくださることです。そのご聖体をじっくりと仰ぎ見ること、それが聖体賛美式の恵みの一つで、今日はそういう観点から御言葉を味わいたいと思います。
今日の福音で、イエス様は重い皮膚病を患っていた十人の人を癒してくださいました。彼らはサマリアとガリラヤの間にある村からやってきて、イエス様に出会ったようです。そして、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。』と言いました。そこで、イエス様は彼らに、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」と言われたのです。彼らはその指示に従うと、途中でみんなが癒されました。ところが、自分が癒されたことに気づいたある一人のサマリア人が、他の九人から離れてイエス様のところに戻って来て、その足元にひれ伏して感謝しました。そこで、イエス様は「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われ、それからそのサマリア人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言って彼を励まされました。
彼らはきっと、その重い皮膚病を患ってから自分たちの居場所をも失い、愛する人たちとも別れなければならなかったでしょう。そして、同じ状況に陥っていた人たちは、国籍や民族、宗教や文化を問わず、みんなで集まって過ごしてきたに違いありません。イエス様が自分たちのところに来られた時、彼らはほかの健康な人たちより先に、イエス様を出迎えに来ました。しかし、自分たちのような惨めな体ではイエス様に近寄ることができなかったので、彼らは遠くの方で立ち止まったまま、声を張り上げてイエス様の憐れみを求めたのです。そこで、イエス様も声を張り上げて「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」と応えてくださったに違いありません。その姿を想像してみたら、イエス様の憐れみの深さが分かる気がします。イエス様は彼らの心の痛みをよく知っておられ、彼らと同じように大声で答えてくださったのでしょう。こうして、彼らは司祭たちのところに行く途中で癒されましたが、それに気づいた一人のサマリア人は、再びイエス様のところに戻って来て、イエス様に感謝したのです。そこで、イエス様は他の九人についてため息混じりにおっしゃったからといって、それであとの九人の病気が再び悪くなったはずはありません。むしろ、イエス様のその話は、あの癒やされたサマリア人の信仰を、信仰のあるすべての人が学ぶべき模範として誉めてくださったわけです。
最初、その十人の人たちは、どれほど悩みながらイエス様を出迎えたでしょうか。彼らは気落ちしていてもイエス様には近寄れず、遠くの方でイエス様の憐れみを求めました。その様子をご覧になったイエス様は、その悩みと苦しみをご自分のことのように受け止めてくださったのです。しかし、病気から解放された十人のうちの九人は、イエス様のところに感謝に戻らず、ただ一人の外国人のサマリア人だけが戻ってきたわけです。イエス様はその九人について残念な気持ちを表しましたが、このサマリア人はイエス様に感謝し、また、仰ぎ見ることができるよう、彼に特別な恵みを授けてくださったでしょう。イエス様はご自分の命をささげ、わたしたちのために清い捧げものとなってくださいました。そのお陰でわたしたちは清められ、更に、わたしたちはイエス様ご自身の御体であるご聖体を通して、その恵みに与れるようになったのです。それを記念するミサを大事にし、また、ご聖体への信心をもっと深めるのはわたしたちの当然の務めでしょう。イエス様はいつもわたしたちと一緒におられますが、だからと言って、ご聖体の形のイエス様との出会いをないがしろにするのは、望ましくないと思います。これからもご聖体の形のイエス様を仰ぎ見つつ、わたしたちの信仰をもっと深めて参りましょう。