今日のイエス様のみ言葉は、「気を落とさずに祈らなければならないこと」の大事さに関するお教えです。そこで、今日はわたしたちの祈りの生活について、信者の皆さんと考えてみたいと思います。まず、祈りについてのある面白い話を紹介させていただきたいと思います。

「二人の修道士が黙想会に参加していました。二人はタバコがとても好きでしたが、指導司祭から、黙想会の間、できればタバコを吸わないようにとの指示があったので、とにかく我慢して黙想に集中していました。しかし、どうしてもタバコが吸いたくなってしまった二人は、指導司祭から許可を得ることにしました。そこでまず、後輩が指導司祭に行って聞きましたが、彼は失望したような表情で戻って来て、指導司祭からは、「吸ってはいけないです。」との返答でしたと先輩に伝えました。そこで、先輩は彼がどういう風に相談したかを聞き、それから指導司祭のところに行きました。ところが、戻ってきた先輩は得意げな顔をして懐からたばこを取り出し、心地よくそれを吸い始めたのです。それを見た後輩は驚いて、先輩にいったいどうやって許可を得たかを聞きましたが、信者の皆さんならどう推測されますか。実は、先に指導司祭と相談した後輩は、「祈る間、タバコを吸ってもいいですか。」と聞き、「いや、吸ってはいけないです。」との答えを聞いたわけです。その後、指導司祭のところに行った先輩は、「タバコを吸う間、祈ってもいいですか。」と聞き、「それは望ましいですよ。」という答えを聞いたのです。そこで、先輩はタバコを吸いながら黙想できるようになったということです。

今日の福音でイエス様は、「神様を恐れず人を人とも思わない」不正な裁判官と、彼に正しい裁判を願っていた一人のやもめの例え話を話されました。彼女はただ一度だけでなく、ほぼ毎日やって来て、裁判官に正しい裁きを願ったようです。そこで、裁判官はやもめの訴えが「うるさくてかなわないから」、裁判をしてやることにしましたが、それは彼女のためではなく、自分のためでした。彼は、彼女の裁判をしなければ、自分が散々な目に遭わされるに違いないと思ったわけです。恐らく、彼はやもめの訴えの真実を知っていましたが、そのつまらないことにはかかわりたくなかったかもしれません。それほど彼はわがままで、神様も人も恐れませんでしたが、自分が散々な目に遭わされることは嫌で、それだけは避けたかったでしょう。

イエス様はこの例え話の結論として、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかにさばいてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」とおっしゃいました。この結論から、神様はわたしたちのすべてのことを知っておられ、わたしたちに必要なことを満たしてくださる方であるのが分かります。わたしたちはそれに信頼を置いて、神様に色々なことを願い、また、祈っているわけです。しかし、いつもまず願わねばならないのは、自分の祈り通りになることでなく、神様のお望みどおりになることと、自分の祈りが神様のお望みに適うものとなることです。言い換えれば、自己中心的な祈りではなく、「神様中心的な祈り」とならなければならないということです。実は、わたしたちの祈りがそうなるためには、忍耐と粘りが必要です。その忍耐と粘りをもって、神様のみ旨を探りながら祈るならば、わたしたちの祈りは必ずもっと深くなり、もっと清くなると思います。そして、その祈りはもはや神様のみ旨に適うものなので、いつも叶えられるはずです。

ところで、神様に祈る際には、どういう言葉で祈ったらよいでしょうか。それについて、わたしたちはあまりよく知らないという気がします。勿論、自分の心や願いを自分の言葉で、素直に打ち明けるのも素晴らしい祈りだと思います。でも、手本があれば、その心と願いと言葉とが、もっと清くなり、神様の御心に適う祈りとなるでしょう。その手本として勧められているものが、祈りの本、特に、それに書いてある主要な祈りなのです。その主要な祈りには、神様の救いの歴史と御業が示されていて、わたしたちはそれを味わいながら聖書の内容を学ぶこともできるし、自分の祈る言葉をより深くすることもできます。そこで、使徒パウロは今日の第二朗読で、聖書を親しむこととその聖書から知恵が得られ、また、神様の教えと戒め、義を学ぶことができると教えました。その聖書に基づいた教会の主要な祈りを大事にし、善いときも悪いときも、神様を信じて祈ることによって、わたしたちの信仰はもっと強くなるのです。そして、今日の第一朗読にも書いてありますが、イスラエルの道をはばんだ異邦人の軍勢を、モーセの祈りによって打ち勝つことができたように、わたしたちの信仰の道を妨げる様々な悪と誘惑も、祈りによって乗り越えることができるのです。

説教の冒頭に、二人の修道士のことを申しましたが、祈りはいつどこでも捧げることができます。でも、できれば静かな所で、心静かに捧げることが望ましいと思います。これからも、信者の皆さんの祈りの生活がもっと豊かになることができるよう、お祈りいたします。