先週の月曜日から金曜日まで、横浜教区司祭団の黙想会が、軽井沢にある御聖体の宣教クララ修道会軽井沢修道院で行われ、わたしも参加しました。軽井沢は標高が一千メートルぐらいの高い地域にあり、また、海岸ではなく内陸地なので、湿度が低く、ちょっと寒かったですが、ちょうど今頃の韓国の風景のようでした。モミジも紅葉し始めてきれいでした。その黙想会を過ごしていたある日の夜中、一人で外に出ました。まるで、森の中にいるような雰囲気の中、夜空を見上げると、一つのきらめく星が葉っぱの隙間から見えたり見えなかったりしていました。たくさんの木の葉っぱがそよ風に揺れるので、その星が見え隠れしたわけです。色々な木々の葉がまだたくさん茂っていたので、夜空の星の群れはあまりよく見えませんでしたが、そよ風に揺れる葉っぱの隙間から、その一つの星に出会ったのです。その様子を眺めながら、今日の福音について少し考えてみました。そして、「ああ、そうかな。人間の先入観はあの葉っぱのようなもの、その葉の茂みのようなものかもしれないな。自分の内から吹く様々な風に揺れて、自分の外にある相手の実際の姿を塞いでしまって、その相手をありのままに認めることができないようにしているのかもしれないかな。」という思いがしました。
確かに先入観というものは、今まで自分が聞いたこと、見たこと、学んだことによって作られたものがほとんどでしょう。それらは時には知識や知恵、時には経験と言われますが、それは自分の中で作られたものではなく、外から得たものだと思います。言い換えれば、知識や知恵や経験は自分のものではないということです。しかし、それらが自分の考えや感情、気持ちによって、他人を批判したり判断したりする根拠となると、それらは単なる先入観となってしまいます。そればかりか、その先入観が他人を苦しめたり、蔑んだり、攻撃する力となると、それはもはや知識でも、知恵でも、経験でもなく、とても怖い武器となってしまうのです。
今日の福音でイエス様は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」、ある例え話を話されました。その例え話には、徴税人とファリサイ派の人とが登場しますが、彼らは祈るために神殿に上っていました。そして、先ず、ファリサイ派の人が祈りましたが、その祈りは自分がどれほど清くて忠実な人なのかについて誇るばかりでした。彼はその祈りの中で、律法に対する自分の知識に基づいて他人を勝手に判断し、しかも、自分と一緒にその神殿にいた徴税人まで告発していたのです。そして最後に、自分は「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と言いましたが、果たしてそんな断食や十分の一の献げ物、また、彼の信仰と義なる行為が、神様に喜ばれるものとなるのでしょうか。
一方、そのファリサイ派の人と一緒に祈っていた徴税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」次の言葉で祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と。彼の祈りはそれだけでした。ところが、イエス様は「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」とはっきりと言われ、更に、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とおっしゃいました。この結論を味わってみたら、神様は自分の過ちや罪、色々な足りなさを素直に認める人を認め受け入れてくださることが分かります。それらの足りなさは自分の内なるもので、外のものではありません。先ほどのファリサイ派の人は、律法や規則、知識や経験、知恵などを自分のもののように思って、それに基づいて他人を判断したり、非難したり、また、自分を正当化していました。しかし、それらは、実際には自分が作り上げたものではないでしょう。ファリサイ派の人は、ただ、自分の高慢な心だけで、彼はその心で自分が学んだ様々な情報や知識などを揺らし、或いは、振るって、他人のありのままの姿を見ようとも、認めようともしなかったのです。それだけでなく、彼はその情報や知識で罪もない人を罪人と定め、多くの人たちを傷つけたりしましたが、何とそれは怖くて恐ろしい武器なのでしょうか。
人間は世の中にある多くのものに惚れて、それを手に入れようとしながら生きています。それらの中には、目に見えるものもあるし、目に見えないものもたくさんあります。しかし、それらのものを得たとしても、実際、それは自分のものではありません。それなのに、それらがまるで自分のもの、自分の作り上げたもののように思うこと、また、それを得た自分にうぬぼれ、他人を人とも思わないのは、どれほど愚かなことでしょう。神様は一切の先入観を持たず、わたしたち一人一人をありのままに愛してくださり、イエス様も同じ愛でキリストとしての使命を全うされました。ですから、キリスト者であるわたしたちもイエス様と同じ愛で互いに愛し合い、受け入れ合うべきです。何かに惚れるのであれば、その愛にこそ惚れるべきでしょう。今もわたしたちに「愛しているよ。」と声をかけてくださる神様のように、わたしたちも互いに「愛します。」と声をかけてみたらどうでしょうか。